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冷汁の食べ方がわからない

やよい軒には、毎年夏の限定メニューがある。

「冷汁ととり天の定食」だ。

写真に映る、氷の浮かんだ味噌仕立ての汁の清涼感にいつも惹かれるのだが、いまだもって、食べ方がまったく分からないでいる。


分からないなら、注文をしなければいい。それは分かっている。

それなのに、写真の清涼感と一緒についてくる「とり天」の魅力に負けて、毎年一回は注文してその都度後悔してしまう。

たちがわるいのは、券売機で食券を買うときは、食べ方が分からないことを都合よく忘れていることだ。

そして、店員が食券を千切っていったタイミングで、それを忘れていたことに気づく。

阿呆だな、とつくづく思う。

あるいは、都合の悪いことを見なかったことにできる、都合のいい脳みそだな、と――。


これは祈りのようなものなのだろうか。

いつか、ちゃんとした食べ方がわかるはず、という祈り――。

アルキメデスが浮力を発見したとき「エウレカ!」と叫んだみたいに、冷汁の食べ方にもそう叫べる瞬間があるのではないか、という期待――。


焼いたアジととり天、ご飯、冷汁。

これらはいったいどうすればいいのだろう?

できることは限られている。

ただの味噌汁として飲むか、ご飯のお供とするかだ。

しかし、豚汁定食はないのだ。「冷汁と」と定食名に冠せられて、単なる味噌汁ではあるまい。

だからやはり、ちゃんとご飯のお供であるはずなのだ。


グーグル検索をすれば、一般的な食べ方を扱った記事はたくさん出てくる。

まことにどんどん便利な時代である。

私も、最初に頼んだとき、「そういえば、食べ方知らないな」と思って調べてみた。

その結果、ご飯を汁に浸けて食べるらしいことが分かった。

しかし、ご飯に汁をかける派閥もあれば、汁にご飯を入れる派閥もあり、どちらが主流派なのかが分からず、ここでまた混乱してしまった。

かけるの? ここに? 洗いもの増えない? あー、でも、白米をよそっている時点で同じか――。

いろいろとそんなこととかを考えてしまい、その日は別々に食べて、汁をほとんど余らせて帰ったのだった。


小さいお茶碗に汁を入れると「ねこまんま」みたいだ。

幼稚園の頃、ご飯をなかなか食べずに愚図る私を見かねたのか、母はたびたび赤だしの味噌汁にご飯を入れて食べる方法を勧めた。

勧めておきながら、母は「この歳だからまだ許すけど」と小言をそこに添えていた。

なんだかそれを思い出して、ちょっとブルーになる。

冷汁の入った大きな容器に入れれば、容器が小さくでご飯が見えなくなるから罪悪感は減る。それに、ご飯に汁をかけるのはマナー違反でも、汁にご飯をかけるのは問題ない国もあるらしい。

しかしそうすると、今度はご飯が見当たらなくて困る。

やり方としてはこの2つしかないはずなのに、どちらもどうにもしっくりこない。


そんなわけで、うだうだ悩んでしまい、私は冷汁がうまく食べられない。

それでも私は、「清涼感」をちゃんと堪能できたと思える瞬間が訪れることを願って、懲りずにまた――いつになるかは分からないが――都合悪いことを都合よく忘れて、食券を買ってしまうのだろう。

冷汁。ミルフィーユ。具材の多いハンバーガー。

幾度裏切られても、それを手に入れるべく挑んでしまう。

それはやっぱり、「救い」を求める祈りに似ている。


【今回の一曲】

School Food Punishment/How to go(2011年)






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