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傘をパクれる人間、パクれない人間

雨の日は、傘を持って家を出る。

まあ至極当然の行動だ。

季節は次第に夏へと向かっているが、まさか大人が「涼しい!」などと言って、進んでびしょ濡れになるわけにもいかない。


その日は朝からシトシトと雨が降っていた。

私はコンビニに行くため、傘を持って家を出た。

夜の雨は少し肌寒くて、上着を羽織ってこなかったことを後悔しながら、私はコンビニにたどり着いた。傘立てにビニール傘を挿して、店内に入った。

適当に買い物をして外に出て、傘立てを見た。

そこに私の傘はなかった。

誰かが持っていったのだ。


私の傘は、なんの変哲もないビニール傘だった。

価格にして1,000円以下で、まあ痛い金額ではあるが絶望的というほどではない。

さして思い入れのある品でもない。

だが、コンビニに寄った程度で雨は降り止まず、傘を差さず歩けば十分濡れるぐらいには降っていた。

失くした傘自体よりも、傘がないこの状況自体が何よりもまずかった。

このとき、私には選択肢が三つあったのだと思う。

一つ目は、コンビニに戻り傘を買うこと。

二つ目は、素直に傘を差さず濡れて帰ること。

最後の一つは、他に傘立てに挿してある傘を拝借することだ。


私は、そのまま小走りで濡れながら帰った。

走りながら、こういうときに他人の傘を使う人のことを考えていた。

これは私の道徳性を誇示したいわけではない。

ただ、生き方の問題として思うのだ。

あそこでしれっと他人の傘を抜いて、濡れずに帰れる人のほうが、やはり生きやすい人なのではないか、と。


「どれか持っていけばいいじゃん」

傘がなくなっていて、傘立ての前で「どうしようかな」と途方に暮れていると、決まってそう言ってくる人がいる。

たしかに、誰かが私の傘を取り違えて持っていた場合、私同様取り違えられた人が同じことを繰り返せば、傘は交換されそれぞれの手元に渡る。

また、傘が十分にたくさんある場合――会社の傘立てなど――には、一本減ったところでどうということはない、という理屈も働くのだろう。

「どれか持っていけば」は、そういった心理ないし考えから発されたものだと考えられる。


そう言われたとしても、私はやはりその手段を選ぶことができない。

自分が損する方法を選び、濡れて帰ってしまう。

上述の通り、これは私の道徳性を誇示したいがためのアピールではない。

むしろ私は、そのことがコンプレックスなのだ。

そういう要領の良い生き方ができないことが。


実際、どれか傘を持っていったところでバレやしないだろうし、被害届を出す人もいないだろう。

もちろん、まったく褒められたことではない。

しかし、それなりの数の人が「まあいいや」と超える倫理の一線を、どうして私は守ろうとしてしまうのだろう?

どうして私は自らそんなに窮屈なやり方を選んでしまうのだろう?

道徳感情からでなく、単に怯えてそれをしないだけなのに――。


これは、プチ犯罪をしてみたい中学生の告白ではない。

大の大人が要領良く生きられないなどとほざく苦悩の述懐である。

私は傘をパクれない。それを誇れる気がまったくしない。


【今回の一曲】

椎名林檎/雨傘(2014年)


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