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しょぼすぎる夢を見る

夢を見ることは誰しもにあるだろう。寝ているときに見る夢のことだ。

空を飛ぶ夢。歯が抜ける夢。芸能人が出てくる夢。

内容は多岐にわたるが、多くの場合それはどうにも突拍子がない。


誰かを話すときに夢のことを話すのは避けたほうがよいと言われるのも、その無法さに起因する。

その話がどれだけ荒唐無稽でも、全てが「夢だから」に回収されてしまうだから――つまり、コメントのしようがないからだ。

また、その夢について「どうしてそんな夢を見たのだろう?」と訊ねても詮無いことである。

夢は抑圧されている無意識の欲望の顕れだとか、記憶の整理だとかブリコラージュだとか言われるが、要するにこれはまだ解明されていないからだ。

そこに素人考えで、「最近、こういうことに悩んでて――」などと、なにか論理的な理由を紐付けること自体がナンセンスなのだ。


夢は荒唐無稽だし、それを見る特に明確な理由もない。

だから、「夢は夢」。それで終わりなのである。

夢と現実を混合する必要はない。

その夢の記憶が、覚醒直後でなく、ずっと先の時点において不意に思い起こされたとしても――。

しかし、ときに妙なリアリティを持った夢を見ることがある。

起きたら汗をびっしょりとかいているような悪夢のことではない。

やけに設定や舞台、登場人物が現実的な夢のことだ。


これの鉄板は、たとえば学校や会社の何気ないワンシーンの夢だろう。

私が小学生時代によく見たのは、体育の授業の夢だ。

私たちは体育の授業で校庭にいて、ごく普通の球技をしている。そこでは誰も漫画みたいなスーパープレイを見せないし、大事件も起こらない。

先生が授業の終了を告げ、私たちは教室に戻るべく歩きだす。

そんなとき、クラスメイトの一人が私のほうを見て「あ」とだけ口にする。

このとき不意に私は、下半身が妙に涼しいことを「発見」する。

視線を落としてみれば、果たして私の下半身はすっぽんぽんなのであった。


とはいえこれもまた、現実と混同することはない。

実際に下半身を露出していたらば、現実に私を見る目も、警戒心や侮蔑の色を孕むであろうが、その視線を私が感じることはなかった。

またその際には、先生などからこっ酷く叱られたに違いないが、その記憶もなかった。

この2点から、くだんの露出がなかったことは立証できる。

しかし先の荒唐無稽な夢と比べて、こちらは――立証の必要性がある分だけ――現実との区別がぼんやりしてきたような気がする。


問題は、もっと「しょぼい」夢だった場合だ。

たしかに夢であったらしいが、特別なこと、変わったことが本当に何も起こらないような夢。

そんなときには、いよいよ夢と現実の境界が曖昧になる。


ある日の夢の中で、私はオフィスにいた。

休憩時間に、同期の何人かで談笑をしていたのだ。

やがて私は肛門のあたりに、外に出たがっているガスの気配を感じた。

私はその場ですかしっ屁をした。

夢はそこで終わった。


音の出ない屁をする――私も、人目をはばからず屁をするタイプの人間ではない。音が出る、出ないに関わらずだ。

しかし、すっぽんぽんに比べて、こちらは遥かに「ありえそう」である。

少なくとも、屁は犯罪でない。オフィスでしたとして、それで私が懲戒処分を受けることはない。それに音が出ないのだ。「おや?」と誰かが思ったとしても、「え、誰かオナラした?」と声に出さなければそこまでなのだ。

だからこちらは、先ほどのような反証が難しい。

やった証拠はないけれど、同様に、やっていない状況証拠も乏しいのだ。


そんなやっていない状況証拠も乏しい、リアルな夢のことを不意に思い出したとき、それを夢だと思えるのは、私がそれを夢と記憶しているからだ。

その「夢」性は、記憶という極めて曖昧で脆弱なものによってのみ支えられている。

ならばそれが崩れたとき、私はとうとう夢と現実を混同してしまうのかもしれない。


「あのときさ――実は、すかしっ屁が出てさ、たぶん臭かったと思うんだけど、ごめん」

いつか私は、こんなふうに無実の罪で謝罪をしてしまうかもしれない。

いや、その程度であれば可愛いものだ。

いつか私は、起こらなかった出来事を理由に、なにか行動するかもしれない。その際に誰かに、決定的に良くないことをしてしまうのかもしれない。

そんなことを考えて、私はちょっと怖くなる。


見るのなら荒唐無稽な夢がいい。

そのほうが怖くないし、そのほうがきっと楽しい。

ああ――出てきてくれないかなあ。広瀬すずに、浜辺美波。


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