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LEON 残酷な幸せを手にしたマチルダという少女。

〜注意〜
この記事は映画LEONのネタバレを含んでいますので、ネタバレが嫌だという方は読むのをおやめ下さい。

「LEON」は1994年に公開された、リュック・ベッソン監督・脚本の仏米合作映画です。
主人公のレオンは、卓越した殺しの技術を持つイタリア系移民の殺し屋です。
彼はイタリア系マフィアのトニーから仕事を受け、ただただ人を殺し続ける毎日を送っていました。
殺し屋の習慣から、ベッドでは眠らず、そして眠る時は片目を開けたまま、決まった時間に筋トレを行い、周りから呆れられるほどミルクが好き。
心を許しているのは観葉植物で、唯一の息抜きは古い映画を見ること。
そしてもうひとりの主人公のマチルダは、タバコを吸ったりするような不良少女で、彼女の父親は違法薬物の売人でした。
ある日、薬物の横領を麻薬取締局のスタンに知られたマチルダの家族は、4歳の幼いマイケル共々皆殺しにされます。
隣の好でレオンの使いに出ていたマチルダはその場を逃れ、父の死体を目にした彼女はとっさにレオンの部屋へ逃げ込みます。
そこでレオンが殺し屋ということを知り、レオンから殺しの技術を教わることを条件に共同生活を始めます。

あらすじ紹介はこれくらいにしましょうか。
この映画の日本公開時のキャッチコピーは「凶暴な純愛」です。
真っ当な愛を受けたことがないマチルダは、レオンと暮らすうちにレオンを一人の男性として愛するようになります。
そんなマチルダを拒絶していたレオンも、時間がすぎるにつれて彼女と同じ気持ちを抱きます。
12歳の少女と30代半ばの男性の純愛。
それは、普通なら受け入れ難いものです。
レオンをロリコンだと言う人もいます。
今回は、この映画の制作背景と持つ意味について、マチルダとレオンの感情描写も踏まえながら考察したいと思います。

マチルダにとって、家族はそれほど大事なものではありませんでした。
継母や血の繋がらない姉から虐げられ、父親からも暴力を受ける毎日。
それでも唯一血の繋がったきょうだいの弟マイケルだけは、心から愛していました。
マイケルも姉のマチルダを慕っていて、マチルダ曰く、家族の中で一番自分に懐いていたそう。
そんな弟を奪われてしまったマチルダにとって、愛とは何か、幸せとは何か。
彼女の人生で、レオンは初めて自分に純粋な親切をしてくれた人です。
自分を麻薬取締官から匿ってくれ、自分に殺しの技術を教えながらも、一人の人間として扱ってくれる。
マチルダにとってレオンは、お隣さんという枠組みを超えた、一人の男性として映ったのでしょう。
そしてレオンは、自分を純粋に愛してくれるマチルダを受け入れて行った。

LEONに対しては、否定的な意見が多数あります。
マチルダを演じたナタリー・ポートマンも、この作品に対して若干否定的な意見を述べています。
たしかに、成人男性と幼い女の子の恋愛を描くというのは不適切ではあります。
実際、児童搾取だという声が多く上がりました。
僕も同意見です。
ここで、ある人の名前を上げたいと思います。
ガブリエル・マツネフ
彼はLEON公開当時、フランスで好評を得ていた作家です。
彼は自身の体験を踏まえて少女との恋愛を世界に訴えていました。
これに感銘を受けた人は多く、少女と大人の男性の恋愛を描いた映画が多数制作されたのです。
当時世界には、ロリータ・コンプレックスを美化するきらいがあったと言えます。
ベッソンがその流れを受け、マツネフの思想に基づいて制作されたのがLEONです。
ちなみに、LEONのワンシーンに、マチルダがレオンに対して性行為を迫るシーンがあります。
初期案だと、本当に初体験をするところまで撮影する予定だったらしいのですが、さすがにナタリー・ポートマンの両親の大反対にあって取り消されました。

さて、ベッソンがマツネフの思想を汲んでLEONを制作した意図とは、なんだったのでしょう。
マツネフの言うような、児童愛を美しいものと世間に主張するためでしょうか。
この記事は基本的に、あるネットの記事を参考に書いているのですが、参考記事には、「少女と男性の恋愛について、あなたはどう思いますか?」という問題提起だろうと書かれています。
児童の性と身体は護られなければなりません。
これは少女にも少年にも当てはまることです。
あくまでLEONの題材が少女と男性の恋愛だっただけなのです。
僕は、不適切に児童の性が搾取されるべきではないと思っています。
ベッソンは児童との恋愛を美化するのではなく、我々にとって児童との恋愛がいかなるものか、それは正当化されるべきか、マツネフの思想をもてはやす世界に対して問題提起をしたのだと、僕は考えます。


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