短篇小説「インターネット」

 情報過多による脳への多大なる疲弊とパフォーマンスの著しい低下を背に沢波アズサは自室のベッドにて項垂れる。インターネットに可用に繋がれる現代社会はありとあらゆる情報がただひたすらに混在する。彼女もまたネットに隷属された人間に過ぎない。SNSに飛び交う無限で雑多的な思考の群れに軋轢を感じつつあるアズサは暗礁に乗り上げた気持ちであった。はて、いつからこのような違和感を持ち得る様になったのだろうか。SNSでは既視感のある議題が流行り廃りと繰り返され、そこに毎回と生じる人間同士の言い負かし合いをアズサは目に見ずとも頭の中で生じる様になった。その度に、アズサは形容し難い苦痛に苛まれる。自分の妄想に過ぎないと理解しているのにも関わらず、人類の業の枷を勝手に自らに繋ぎ止められたのだと思い込み暗澹たる病巣に耽るのを止められなかった。

 しかしながら、この手の感情が如何やら最近落ち着いてきているとも感じられるのだ。理由は至って明白、アズサは思考を放棄した、というよりも放棄してしまったのだ。今の彼女はインターネットを見つめる一介の亡霊に過ぎない。流れゆく情報を飲み込んでいるフリをして生きている。スマートフォンの画面を延々とスワイプする姿勢はパブロフの犬以下の知性を持ち知性を持たぬ塊でしかない。その呪縛から逃れる術を知ってはいても辞めることは出来ない。アズサは最早、完璧なる情報の奴隷であった。決して中毒者等では無い。そこには快楽など存在せず、ただ粛々と広がる知識の静謐に己が精神の全てを明け渡す極めて残酷な真実を彼女の姿で照らしている。

「誰?」

 ニスの艶やかさがまだ残る黒いデスクにドンと置かれた白いデスクトップPCから不意に声が聞こえた気がした。アズサはこの唐突とした現実に訝しみを覚えて、もぞもぞとベッドから這い出した。PCに電源は入っていない。でも確かに、声が聞こえたとしか考えられなかった。ぼうっとしていた頭に徐々に血液が巡り出す。この非現実的な違和感を何故だか単なる思い過ごしや幻聴と捉えては駄目だと。手慣れた動作でPCの電源を入れ、立ち上がるや否やログインパスワードを打鍵する。それ相応のスペックを有したアズサのPCはにデスクトップ画面を瞬き一つで映し出す。綺麗に整理整頓されたアイコンがアメリカ合衆国カリフォルニア州ソノマ郡の草原を壁紙に立ち並ぶ。その中に一つだけ、アズサの記憶に無いアイコンが画面中央部に居座ってた。

「なに…これ…『終末君.exe』?」

 終末君と記載された謎のアイコン。その見た目は先端部がポッキリと折れた鉛筆にニッコリとした記号顔が掘り込まれた出立ちであった。アズサは不気味な感情を抱えつつ、それよりも勝る原因不明の興味心に促され、アイコンにカーソルを合わせてダブルクリックする。突如、ポップアップされた画面には無数の文字が幾何学模様を描きながら羅列されていく。

『動線、脈拍、配管、窓下、高架、平原、etc………』

 多数の言葉が渦を巻きながら四方八方に収縮を繰り返している。それはまるで、一つの生命体の息吹だ。安定した呼吸を淡々と続けている。終わりの無い周期的な行為。だが、アズサは極自然に動物的な本能や直感により、意識を逡巡するまでも無く全てに終わりはあると悟った。諸行無常、ビッグバンからビッグクランチ、終わりよければ全て帰す。進化は衰退であり、衰退は永劫への回帰を示す答えなのだ。彼女は今ようやく理解した。自分は決して、奴隷では無かったのだと。朽ち果てた理性は新しく進化したのだと。猿人が武器を持ち、狩を始め、同族を殺し始めた時と同じ様に。情報と同化する種への変貌は静かに始まっていた。アズサはこの進化が決して、自分の身だけに起きた訳じゃないと確信する。世界中の誰しもが、インターネットに繋がる環境に身を置いているならば起こり得る現象に違い無い。これは現実逃避染みた厭世主義でも無ければニヒリズムでも無い。今まさに産声を上げた希望の回生なのだ。

 アズサが爛々と思考を馳せる中、先程と何一つ変わっていない筈の終末君の笑顔が一瞬冷笑を湛えたかの様であった。結局これが人類の適応進化であるかは、誰にも預かり知れぬ問題であろう。だが彼女にとってこれは明確な答えであった。薄れ失われていく自我の磨耗へ送る最大のメッセージ。恐らく悠久の時を経ても、情報の中へと痕跡は同化し続けるのだから。それは繰り返し、繰り返し、始まりと終わりに隔てられた反撥を見つめる小さな視点を愛するみたいに…。

 沢波アズサは今日も日がなネットサーフィンに興じる。しかしその瞳は安らかで有り、心に一切の起伏は無い。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?