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言葉という直接的な媒体をどう扱うか。

こんにちは。

初noteから約3ヶ月間、色々と書いてみたのですが、全て下書きに眠らせてしまい今日まできました。

ですがひっそりと本を作っていました。
完全自分用の詩集です。
高校時代から書き溜めた詩を抜粋、InDesignで編集、自宅で出力、表紙用の版画の制作、簡易な装丁を行い無事1冊の本が完成!
この歳になっても私の厨二心は消えてくれず、絶対に誰にも見せたくない1冊になってしまいましたが…。

やっぱり自分の文章、考え、世界に自信が持てない。

ですが、いつも制作している作品も言葉にしてしまえば同じようなことなのです。
言葉という直接的な表現ではいくら恥ずかしくても、黙秘することも、自分を誤魔化すこともできない。
ただ伝える媒体を変えただけでこんなにも人に見せたくなくなるのです。

そんな言葉にコンプレックスを抱える私ですが、2月には言葉に関する作品を作っていました。
自分の言葉に対する見解をただ英語で出力したものです。
この作品はあまり英語を得意としない人に向けた作品とでもいうのでしょうか。
この作品に書いてある文章はそれほど重要ではなく、この文章を誰かが読むというところに意味がありました。
日本語圏で英語の長文を置くと、多くの人はしっかりと読もうとはしませんでした。私がただのいち学生で小さな展示会場で行っていたということもあるかもしれませんが。
文章が成り立っているものでも自分が読もうという意志を持たなくては、それは文字としては認識されることはなく、ただの模様となんら変わりはないのです。
しかし読んでくれる人はいました。
翻訳アプリを使いながら、自力で読めるところまで、と私の作品の中身に向き合ってくれ、感想をフィードバックしてくれたのです。

もし日本語で出力していたのなら、直接目に飛び込んできて、もっと多くの人がこの作品の中身に向き合ってくれていたのかもしれません。
しかし言語というハードルを設置することで、多くの人は諦めてしまいます。

不特定多数の人に読まれ貶されるのであれば、読む意志のある人に読んでもらい、言葉をもらうのが作者と鑑賞者の美しい構図のように思えるのです。

この体験は私が日本語で自分の言葉を誰かに見せるということを避けている理由を示しているのではないかと思います。

これから自分の作品をどう扱っていくかはゆっくり考えていこうと思いますが、そんなことしてる間にもう大学生活も折り返しです。
とにかく卒論書くまでには自分の文章に自信が持てるように頑張ります。

(2024/04/26)

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