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時給1050円を安いと思ったり、おまえらの言葉に喜んだり傷ついたりしませんように。


一人暮らしをして2年と少しが経った。大学に通いながら居酒屋と画廊のバイトを掛け持ち、心もとないバイト代と親の仕送りで生きていた。しかしここ半年で親からの仕送りが徐々に減り始めた。
「欲しいときは言ってね。」と言われるけれど親に金の催促をするなんて私にはできなかった。

だから私はラウンジで働き始めた。

1ヶ月が経ったが、まだ客もついていない。フリーの席ばかり。営業が苦手だから連絡も取らない。でも働いている人のほとんどがそんな感じで、あまりガツガツしていないゆったりとした店。私はノンアルのカシスウーロンで時給+小遣いを稼ぐため、シラフで働いている。

お客さんとは出身地の話や古い音楽や大学生活の話をしているが、いつも微妙に違うように話している。自分でも自分がわかっていないのだ。

マナーの良いお客さんもいれば、マナーのなっていないお客さんだっている。でもどんなお客さんでも持ち上げて、触られたときや下品な話を聞き出そうとしてきたら上手くあしらう。それがこちら側のマナーだという。

1ヶ月働いてわかったことは、この世のおじさんたちがなぜあんなに自信を持っているのかという理由だけ。

足を触られるくらい、二の腕を触られるくらい、容姿について何かを言われるくらい、何も感じない。ここに私はいない、ここにいるのは私ではない違う人だから、私に向けられた言葉は私が気にすることではない。だから何を言われても、触られても何も不快じゃないし、ニコニコ笑っていられる。

「かわいい」と言われても「清楚」と言われても「顔が小さい」と言われても喜びたくなんてない。「ブス」と言われても「親が悲しむ」と言われても「しっかり働け」と言われても傷つきたくなんてない。

私の好きな音楽をそこで消費してもその音楽が汚れることはない。古い音楽を知っていることが唯一の私の売りであるだけ。

シラフだから自転車で帰宅する。深夜1時の街中には車なんて走っていなくて、道は全部私のものになる。好きな歌の好きなフレーズだけをぼそっと口ずさむ、この後はもう誰にも会わないから前髪も汗も気にしないで坂道を駆け上がる、その時間だけが大好き。

居酒屋と画廊のバイトも続けている。夜によく電話をする姉には居酒屋のシフトを増やしたと言った。

絶対に芽生えさせてはいけなかった感情があって、それは居酒屋と画廊のバイトの時給に不満を持つこと。普通の感覚を持っておかなければならない。でも居酒屋のバイトはどんどんキツく感じるようになってしまって、時給1050円に納得できなくなってしまっている。時給1000円の画廊のバイトも時間が全然経たないのが辛い。

姉に一度「友達がラウンジのバイトを始めた。」と言うと、「その子もうこっち側には戻ってこれないね。」と言った。もう1人の私はあっち側に行ってしまって、私はあっち側に引っ張り込まれないようにしなければならない。だから絶対に居酒屋と画廊のバイトはやめない。

昨日はお客さんの入りが悪く、私のことを妹に似ていると言う、姉によく似た先輩と早上がりし、夜中の3時までやっている回るお寿司を一緒に食べにいった。その先輩は庶民派で、「一度の食事に何の気もなしに6000円払える他の仕事仲間を理解できない。」と言っていた。先輩は副業でラウンジをしていて本業はフリーのデザイナーで、本業の給料はすべて積み立てに回しているという。こんな人もいるんだ、とこの人に希望を見出して働くことに決めた。

会計は2人で1500円いかなかった。きっちり自分の食べた分を税込価格で計算して出し合ったけれど、端数の3円は奢ってくれた。

親に金を催促するくらいなら自分の感情を売ってしまっても構わない。ただ時給1050円の居酒屋と時給1000円の画廊のバイトをこれからも続けて、お客さんの一言一言に喜んだり傷つかずに生き抜きたい。

たまに回るお寿司が1人1000円以内に収まるように食べて、画廊バイト1時間分の自分を労ってやろう。

そしてここで稼いだ7月分のお給料は、8月の良き夏にすべて溶かしてしまおう。今年の8月は毎日がきっと楽しいはずだから。

でもこの8月が終わってしまったら私は変わってしまうのだろうか。今までの私を支えていたのは紛れもないこの8月なのだから。今度会う人たちと8月以降のご飯の予定を立てなければ、春休みの旅行の作戦会議をしなければ、きっと今の私は死ぬのだろう。姉の言うこっち側に戻ってこられないのだろう。

誰かプロポーズしてくれさえすれば、私の命の期限は私ではなく神の一存によって決められるものとなるだろう。なんてね。そんな掴めもしないような希望を期待してしまっている。


2024/08/06

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