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「世界は繋がっているようで繋がっていない」

昨日、ようやく映画「PERFECT DAYS」を観た。結論から言うと、昨日と今日で感想が大きく変わった。小さな穴(違和感)からベリベリと障子が破られていきその先が見えるような不思議な感覚があって面白かった。折角なので感想を残そうと思う。


ネタバレを含むので、観てない人は観た後に読んでほしい。観た人は意見聞きたい。聞かせてください。

(※以後、あくまで個人の感想です)




観てすぐの感想はこうだ。(このnoteで言いたいことじゃないので簡潔に)

3年前の自分だったら絶賛していただろうが、実際にブルーカラーの仕事をしてみて感じることがあまりにもありすぎた。あの生き方を「こんな風に生きていけたなら」なんて綺麗事にしちゃいかんだろう。知らないうちに切り捨てられている世の中の問題をエモーショナルな映像美でごまかしちゃダメだろう。
そしてステレオタイプな「日本人」像の表現、渋谷区が追い出したホームレスをアート的に用いる表現、TTTのプロモーションとしての目に障る諸々の表現、現実離れした映像美、社会的弱者である「彼ら」の美化。思うところが多すぎて、複雑な気持ちで映画館を後にした。







ただひとつ、

「世界は繋がっているようで繋がっていない」




このセリフがぽん、と不気味な違和感としてずっと残っていた。
自ら選択してこの生き方をする人がこの発言をするだろうかと
シーンの流れ的にはどちらかというと「世界は繋がっていないようで繋がっている」って目を輝かせながら言うんじゃないだろうか。



あれ、と少し考えてみる。
セダンが去った後、彼が泣いたのは何故だろう
最後のシーン、終始泣きそうな不安定さのある表情で、朝日が出ている時だけ笑っていたのは何故だろう
爽やかな日常パートの裏で描かれる夢のパート。なぜあれを挿れたのか。日常パートの風景の断片がモノクロで繰り返されるだけなのに、どこか不穏な空気が漂っていたのは何故だろう

一つの石が美しく完璧な世界に開けた穴は、じわじわと広がっていった。




ひとつの仮説を立ててみた。
自ら選択してこのような生き方をしたのではなく、「何らかの理由があって」転落した人生だとしたら?「本当にトイレの掃除してるの?」という妹のセリフから、犯罪までいかないものの、たとえば、自分のせいで家族をなんらかの形で失ってしまったとか。昔した罪を世間に問われないまま逃げ延びてしまったとか。謂わば自分に罰のようなものを課せて(もしくはそうせざるを得ない事由があって)生きているとしたら。
見てきた全ての違和感に合点がいく。

するとこの映画の見方がぐるっと変わる。



踊るホームレス、ダウン症の男の子。お金の無心をする同僚。水商売をしている女性。そして公園で1人コンビニの弁当を食べる明らかに顔色の悪いOL。

この映画を「美しい」と絶賛するひとは、彼らのことを「他人事」だと思っていないだろうか?
よほど幸運でない限り、ひとは死ぬ前になんらかの障がい者となることすら、誰も知らない。現実から目を背けている。


作中では誰も何も言っていないのに、富裕層の家族がいるシーンを見て「平山は自らこの仕事を選んだ」と思い込んでいるのもこれである。

作中でホームレスやダウン症の男の子は一体、いつ「美化」されただろうか?(平山の生活も含め)そこにあるのは単純な映像美であり、美化された話や件は実は何一つ作中に登場しない。単純に言えば登場人物はただそこに「いる」だけであり、平山はただ「眺めている」だけ。現実の影の部分を飛ばし、美しめに表現しているだけである。

美しさは私たちの思い込みでしかない。劇中に出てくるトイレの清潔さと綺麗な作業着は、なんとも上手いカモフラージュである。TTTのPRを逆手に取ったやり方だ。





この映画を「美しい」と感じたひとは、映画の登場人物ではなくひとりの現実の人間として、20年後の彼を想像してみてほしい。

この「PERFECT」な日々はいつか終わりがくる。老いて、車に乗れなくなり、働けなくなり、動けなくなる。見たくない現実は「必ず」訪れる。それが恐ろしいことに、「今の地続き」にある。わたしはそれがどうにも怖くて堪らなくなった。

(そういった意味でみてみると、この作品におけるニコという姪の存在は唯一の光であるとも思う。作中ではどこか瘤のように見えるが、今の「完璧」が失われた時にそれを補完する役割を担っている。この構図に気が付いた人の苦しさを緩めてくれる。と同時に少子高齢化が進む今の日本の暗喩的表現でもあると思う)

「世界は繋がっているようで繋がっていない」という発言は「これは現実ではなく作り物だ」ということを指したメタ的な表現にも感じた。この言葉が、ちょうど夜の一歩手前、陽が沈む夕方に発されたのも良かった。





もう一度映画を振り返ってみる。
輝く木漏れ日を撮り、その写真を箱に入れるのは何故だろう。あれだけ鮮やかな景色を全てモノクロで撮っているのは何故だろう。折角撮った写真の多くを破り捨てていたのは何故だろう。
作中で何度もモチーフとして登場する「木」は何を表しているのか。
「今は今、今度は今度」という台詞。
「どうしてこのままでいられないんだろうね」というスナックのママの台詞。
最後の「木漏れ日」の説明の意味。



PERFECT DAYSというタイトル。
変なタイトルだな、と思っていたけれど、これは「PERFECTでない状態」を見据えたタイトルだと気がつく。

そしてサブタイトル。「いけたなら」というところがミソだ。これは反語表現だ。

「ずっと」こんなふうに生きていけたなら。(否、そんなことはできない)

本当のサブタイトルはこれじゃないだろうか?
皮肉をこめて、敢えて本質をミスリードさせるように作ったのだとしたら面白い。(そもそも映画的なシーンより人生的な物語を重視するヴェンダースがそんなペラペラな映画作るとも思えない)

木漏れ日が差していなくても木はそこにあるのだ。人々が目を向けなくても、空気のように。平山は間違いなく「木」であり、私たちが映画で見たのはその「木漏れ日」に過ぎない。



この映画の日常パートは、彼らを他人事だとする「誰か」の目線で見た風景である。(製作側ではない。パンフレットに態々書くのはある種の誘導で、非常に分かりにくいが諸々の疑問を整理するとこの映像美は皮肉表現であると思う)
なんとか生活できている「今」のみに焦点を当て、「今後」その先に続く人生の暗闇、そしてそれに付随する彼らの不安や恐怖は見て見ぬふりをする。まだ陽が出ている中での「今は今、今度は今度」は、これを遠回しに表現していると思う。

東京に通学なり通勤なり住むなりしたことがある人ならきっと分かるだろうが、例えば新宿のガード下のホームレスをまじまじと見る人なんていない。チック症を抱えている人が電車で奇声をあげても、誰も反応しない。むしろそっと距離を取る。暗い顔をして電車に揺られる人を気にすることもない。彼らは空気と同じ扱い。他人事とはそういうことである。

そして「公衆トイレの清掃員」は最も身近な彼ら「空気」の最たるものであり、映画においてのアイコンになっている。顔どころか、公衆トイレを掃除した人に出会ったことがあるか否かさえ、私は覚えていない。

これが「現実」である。
不安で暗くて歪で朧げな、劇中の「夢」がこれを表現している。ここでも対比構造が窺える。日常パートはただの木漏れ日であり、夢パートが実は木(本体)である。

私には多くの写真を破り捨て、選んだものだけ大切に箱に入れて仕舞っておく平山の姿が、現実の「彼ら」の見たくない側面を剥ぎ取り、綺麗な部分だけ映像化する「私たち」に重なって仕方なかった。


もしこれが、物語は何も変わらないまま、ただ「映像美」が消えただけの(たとえば一般的な公衆トイレ、汚い作業着、踊らずただじっと地面に蹲るように小さく眠るホームレス、相手にもされない知的障害者、飲みに行くこともできないほどの貧困など)「現実」の彼らを描いた作品だったとしたら、巷の感想は全く違うものになっていただろう。宮下公園を無くしたりして問題がうまく隠されるようになっただけで、「現実」はいくらでも東京に転がっている。見たいなら見ればいい。むしろ見てほしいとすら思う。
この映画の真髄は、TTTのPRであると同時に、美しい映像の中に反語的に表現された東京、ひいては日本が抱える問題の提起である。

恐らくヴェンダースの意図としては、「素晴らしい」と評価する人も、「こんなのはリアルじゃない」と批判する人もいるこの状況を生みたかったのだと思う。どちらかによれば議論は生まれない。問題が浮き彫りになるのは両者の主張があってこそである。

「世界は繋がっているようで繋がっていない」という違和感のある台詞は、美しい世界に穴を開ける石だった。




「色々とおかしい」ということを、そろそろみんな自覚しないといけない。日本の未来に暗い影があることに、みんな気が付いてるのに見ないふりをしている。

木漏れ日が輝くのは日が差す間だけであり、私たちが「空気」としているそちら側に、誰だって、そしていつだって、行く可能性があるのだから。



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