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短編ホラー小説レビュー①【約束の指】心は永遠に無垢なる少女の、ささやかな悪意

#小説レビュー #久美沙織 #サイコサスペンス   #妊娠 #指輪 #吸血鬼

主人公、岡本千草は27歳の妊婦。食べづわりはとうに収まって臨月間近になったにも関わらず食欲はいっこうに衰えず、人生最大の体重増加と、すっかり肥え太ってしまった自分の体に対して自己嫌悪に陥っている、平凡な専業主婦だ。

定期検診に訪れたかかりつけの産科医院で、千草は思いがけない相手との再会を果たす。到底妊婦とは思えないスレンダーな肢体に、

『見るからに高価な青りんご色のスーツを着、長い髪をパリジェンヌ風にまとめあげ、そなえつけの雑誌を退屈そうにめくっている。高々と脚を組んだ格好は、産婦人科ごとき、なんでもない、と言わんばかり』

な、『大人の美しい女』に。

見覚えのある彼女の姿に見入っていた千草は、患者を診察室に呼ぶ声をうっかり聞き逃す。

「……かもとさぁん、どうぞ」

女の姓は鹿本(かもと)、千草の姓は岡本。診察室に呼ばれたのはその美女、鹿本の方だった。

鹿本という少々珍しい姓に、千草はかつての同級生の存在を思い出していた。しかし千草の記憶にある同級生と、今しがた目にした鹿本なる美女の姿は似ても似つかないものだった。

ーー鹿本亜由美。小5のとき同じクラスになった地味で陰気でひどく内気で、グズで不器用を絵に描いたような陰キャそのものの女子。父親の存在は語られないが母親は毒親らしく、既に生理の始まっていた彼女は生理中、常に下着に経血を漏らし、さらにその下着が丸見えになるほど『呆れるほど短いスカートやワンピース』を着ていた。

中学入学後、それをようやく指摘したのが千草だった。他の小学校出身の生徒達の手前、責任を感じて。亜由美は母親から正しい生理用品の使い方さえ教えられておらず、小5から3年もの間、ナプキンを二つ折りのまま使用し続けていたのだ。それがきっかけでふたりは友人になったのだが、それほど無防備で精神的に幼いながらも、その反面、亜由美は妙になまめかしく、淫靡な少女だったことを千草は回想する。

千草は診察を終えた『鹿本』なる女性に声をかけようとするが、妊娠中のため身なりにかまえられない自分とは対照的に、両手の爪にはネイルが施され、指輪をいくつもはめた指に引け目を感じためらうものの、千草は思い切って声をかける。やはり女はあの亜由美本人だった。

しかし亜由美はそっけなく「お幸せそうね」とだけ返す。窓口で薬を受け取り、診察代を支払う亜由美のバッグも財布も、高価な金色のマーク(シャネルと思われる)があるのを目にした千草は、

幸せ? 幸せですって? わたしが?    あなたのほうが、ずっと素敵で、幸せそうよ、亜由美ちゃん!

と、どす黒い感情でいっぱいになる。

「それじゃあ、お元気で」

それだけ言って医院を後にしようとした亜由美だったが、彼女は千草の表情に何かを感じ取り、思いがけず、亜由美自ら診察後にふたりで食事に出かける約束を取り付けた。

「わたしにはシェリーを。ティオペペ」

亜由美に連れられて行ったブラッスリー(フレンチ居酒屋)で、亜由美はメニューも見ずに、スペインの一部地域産のものでしかその名を名乗ることを許されないシェリー酒の代名詞である辛口白ワインを注文する。しかも普通のワインよりアルコール度数の高い、酒精強化ワインを。

千草はターキークラブハウスサンド、スパニッシュオムレツ、ごぼうとカボチャのサラダ、そして食前にヨーグルトドリンクを頼む。時間はまだ午後4時。互いに時間帯にそぐわない注文である。千草は眠りづわりがひどく、妊娠してから一日中食っちゃ寝を繰り返す日々を送ってすっかり太ってしまい、今の我が身を「まるでカバだわ」と自虐する。

互いの近況を語るうち、亜由美はまだ独身で、今は指輪専門のフリーのジュエリーデザイナーをしていると語る。亜由美の指に嵌められていた色とりどりのラインストーン入りの指輪も、鋼のような光沢の太い指輪も、薔薇色がかった白い宝石が填まった指輪も、すべて彼女が一人で製作したものだった。

千草は心から感嘆するが、過去の自分と亜由美、現在の自分と亜由美と完全に立場が逆転している現実に悲しみさえ覚えた。

中学時代はクラス内の女子一の長身にして成績優秀な学級委員長、クラスの女子達のまとめ役にして、陸上部のホープ。下級生の女子生徒達からはさらさらの黒髪のショートボブというボーイッシュな容姿から王子様と称賛され、あえて制服は着ずに常にショーパン姿でいた、旧姓、浜口千草。

一方、ダサい三つ編みにノロマな動きの体にまとったブカブカの制服姿で、まるで自分の身なりに無頓着だった鹿本亜由美。

しかし今の千草は妊婦であることを差し引いても、振り袖のような二の腕に二重顎、対して亜由美は颯爽としたスリムな体に上物のパンプスを履き、都会で働くデキる女そのもので、恐ろしく若々しい。

運ばれてきたサンドイッチをむさぼる千草の様子に何かを察した亜由美は、シェリーのグラスを揺らしながら、ふと千草に問いかける。

「……ひょっとして」          「不幸なの、ちいちゃん?」

その言葉を機に、千草は思わず夫の隆志がまだ二十歳そこそこの部下、榛原恭子と不倫している事実を亜由美に打ち明けてしまう。                  ーーこのときはまだ、これが惨劇の幕開けとなることも知らず。

隆志とて、妻の千草に対する愛情がなくなったわけではなかった。アパレルメーカーに勤め、学生時代から女を欠かしたことのない元来の肉食系男子である隆志は、結婚したら文字通り身を固め、ひとりの夫として家庭に収まるような男ではなかったのだ。妊娠で激太りした千草を女として見られなくなったというようなゲスい思いなど皆無なのだが、常日頃から私にはあなたしかいない、とばかりに無言で圧をかけ、自分に精神的に依存する千草の存在を重く感じるようになっていたのだ。そしてほんの火遊びに過ぎない恭子との不倫が千草にとうに知られているという、後ろめたさも手伝って。

ブラッスリーでの食事中、千草と亜由美の間ではまったく話題に昇らなかったが、その頃世間では10代の若い女性の薬指が切り取られ、遺体の首には必ず噛み跡とそこから血を啜られた痕跡が残されるという連続殺人事件が発生し、連日ニュースや新聞、ワイドショーを賑わせていた。                  千草と亜由美が十数年ぶりの再会を果たしたその日、退社後に隆志とホテルで「休憩」の一時を過ごした恭子はその翌日の夜、同僚と飲んでの帰り道、雨に降られたところを、赤いアウディに乗った見知らぬ女性に声をかけられ、自宅まで送り届けてもらうことになった。    もつれる足で渡っていた横断歩道から自宅は遠く、酔いも手伝い、相手が女だからと気を許したのが間違いであり、最大の失敗だったと気づくこともなくーー。

数日後、千草は隆志の実家へ向かっていた。その日はふたりが結婚する以前に鬼籍に入った義父の月命日であり、義母の靖子から昼食に誘われたためでもあった。隆志の実家である岡本家はいつも家中磨き抜かれ、整理整頓されており、靖子とは嫁姑問題とは無縁の、極めて良好な関係を築いている。そして岡本家には、隆志の姉である夏子とその一人息子、翔太が同居している。

義姉の夏子はエステサロンの店長を勤めるシングルマザーで、元夫との不仲から翔太の生後半年で離婚し、実家に戻っていた。義姉妹の関係も義母と同様、何ら問題はないのだが、常にポジティブで精神的にも体力的にもエネルギッシュな義姉の言動と、孫にも嫁の自分にも優しく、未亡人とはいえ主婦として完璧な靖子の姿を目にした千草は出産と出産後の生活に、さらなる情緒不安定に陥ってしまう。

その晩、千草は亜由美に電話をかけ、義実家での出来事を話した。

「ひどい人達ね」            「ちいちゃんの寂しさなんて、全然わかってくれないのね……」             亜由美は電話口でそう返すが、      「あら、違うわ、そんなんじゃないの」   言い過ぎてしまったと自覚した千草は、慌てて否定する。決して靖子と夏子への愚痴や悪口を言ったつもりはなく、あまりに立派な義母と義姉と自分と比べ、しがない専業主婦でしかない自分はつい引け目を感じてしまうという弱音を吐いただけだと、千草はフォローする。   そこへ隆志が帰宅し、千草は亜由美にありがとうと礼を言い、電話を切った。

台所へ向かうと、椅子にへたり込みながらネクタイを緩める隆志の顔色はひどく悪く、明らかに様子がおかしい。隆志の口から、恭子が亡くなったことを告げられる。しかも死因は、例の吸血鬼連続殺人事件の被害者として、彼女もまた例にもれず、遺体の首に噛み跡が残され、薬指を切られた状態で警察に発見されたという。

【吸血鬼】

その単語に、千草は突如として錯乱状態に陥った。

吸血鬼? 吸血鬼ですって?

臨月の迫った身重の体に加え、通院と定期検診を欠かせず、精神的にも肉体的にもまったく余裕のなかった千草は、連日新聞やニュースで報道されている、その事件を知らなかった。そして今の今まで完全に忘れ去っていた、少女時代の遠い日の記憶が瞬く間に蘇る。

週末の夜、亜由美の自宅に招かれ、ふたりだけのお泊まり会をしたその晩のことだった。

同じベッドに体を横たえながら、千草と亜由美は深夜になってもまだ眠りに就かずにいた。亜由美の家族はみんな寝静まっている。

「秘密を教えてあげる」         「どんな秘密?」            「すごい秘密よ」

言いながら、千草は亜由美のパジャマの上着のボタンを外し、抗う亜由美の唇を唇で塞いだ。

「あたし、吸血鬼なの」         「秘密よ……誰にも秘密。あたし達はきれいな女の子の愛と生気をもらって、何百年も前から生き続けているの」      

「普通はね、ただ、血を吸うだけ。でも、それだと、寂しいじゃない? だからあたし達は、時々、一番お気に入りの女の子を、自分と同じ吸血鬼にするの。その方法を教えてあげる。……ほら、これが約束の指」

千草は亜由美の陰部に滑り込ませ、その粘膜に湿った自分の薬指を亜由美の唇に触れさせた。

「知ってるでしょう、エンゲージリングをする指だよ。さぁ、咥えて……あんたの指をあたしに頂戴」

そうして、ささやかな淫靡な儀式が執り行われた。千草は亜由美の薬指を強く噛み、亜由美は千草の薬指を甘噛みした。

「……さあ、これでいい。永遠の命を、あんたにも、あげるね」

そうして千草は、亜由美の首筋に噛みついた。                  読書目線で見れば、亜由美は当時既に中学生だ。千草は夢見がちな少女だった亜由美に対し、からかい半分で、そのような嘘をもっともらしく演じてみせた、ほんの悪ふざけに過ぎなかったのだろう。ひそひそ声で好きな男の子の名前を打ち明け合い、ふたりだけの秘密とする、年頃の女の子同士の内緒話の範囲内で。

一夜明け、隆志は勤務先に電話をしている。昨晩、錯乱状態に陥った妻の身を案じ、欠勤する旨を上司に伝えていた。今夜行われる恭子の通夜には参列すると告げ、隆志は電話を切る。

隆志は妊娠中の妻が、夫の部下が連続殺人事件の被害者として亡くなったと知り、それが原因で精神的ショックを与えてしまったと信じて疑っていない。そして皮肉にも、この出来事がきっかけで隆志は改めて自分が愛しているのは千草ただ一人なのだと、目を覚ます。

隆志は今の住まいにあるタンスの中に葬式用のネクタイがないため、一度実家に戻ると言い、隆志は千草の乱れた髪もかまわず頭に口づけし、さらに千草の手を取って頬を押し当てるが、今の千草に夫の愛情表現を受け入れる余裕などあるはずもなく、千草に拒絶された隆志は、そのまま家を出て行った。

千草は自分の過去の記憶から、連続殺人事件の犯人にして吸血鬼の正体は、間違いなく亜由美だと言う確証を得ていた。

亜由美はあの秘密の嘘の儀式を行った十数年前のあの夜から、自分は永遠の命を分け与えられた吸血鬼となり、その十数年間、若く美しい少女達の薬指を噛み、その生き血を啜り続けて生きてきたのだと。

ーーひどい人達ね            ーーちいちゃんの寂しさなんて、全然わかってくれないのね

千草は気づいてしまった。昨晩義母の靖子と義姉の夏子に対する愚痴として吐いた言葉に、亜由美がそう返したのを。

何百年も生き続けるものの寂しさを     わからないものたちなんか、        いらない……?

その時、玄関のチャイムが鳴った。隆志が、夫が戻ってきた、戻ってきてくれたーー。

ベッドから転がり落ち、駆けつけた玄関のドアを開ける。しかしそこに、隆志はいなかった。

「指輪のサイズを教えて欲しいの」

「ちいちゃんにも、素敵な指輪を作ってあげる」

亜由美がうやうやしく差し出した絹のハンカチに、世界で唯一、千草のためだけのオーダーメイドの指輪となる貴重な素材として包まれたそれは、確かめるまでもなく、夫と、義母と、義姉のそれだ。

切り口にこびりついた血も生々しい、大小三本の薬指ーー。

©️祥伝社文庫「万華鏡」収録/電子書籍なし






 




















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