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第5回 インド分離独立とガンディー

 1948年1月30日、ガンディーが狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺されました。ピストルで3発の弾丸を打ち込まれると、薄れゆく意識のなかでガンディーは額に手をあてます。イスラーム教で「あなたを許す」という意味のジェスチャー。どうしてガンディーは、死の直前、そのような行動をとったのでしょうか。


目次
⑴ガンディーの非暴力の思想
⑵インドの民族運動とイギリス
⑶インド分離独立とガンディー暗殺
⑷インドとパキスタンの対立

【大学入試問題】
論述良問にチャレンジしてみよう!
(2009年 京都大学 第1問)

おわりに ガンディーが立ち向かった相手

おすすめインド料理店 ①ナイルレストラン ②ダバ・インディア
おすすめ映画 『ガンジー』(1982年)
【関連年表① インド独立運動】
【関連年表② 戦後の南アジア】


⑴ガンディーの非暴力の思想

 「インド独立の父」ガンディーは、インド西部の藩王国の宰相の長男として、裕福なヒンドゥー教徒の家に生まれました。インド帝国の時代、宗主国イギリスのロンドン大学に留学して法律を学び、弁護士となったガンディーは1893年から南アフリカに渡ります。当時、南アフリカではダイヤモンド鉱や金鉱が発見され、鉱山労働者として多くのインド系移民(印僑)が流入していました。過酷な労働を担う彼らはクーリー(苦力)と呼ばれ、オランダ人やイギリス人など白人たちから激しい人種差別を受けていました。ガンディーはこの地でただ一人のインド人弁護士として差別と闘います。このときガンディーは愛と自己犠牲をとおして相手の良心に訴えかける積極的な非暴力の思想を形成しました。ガンディーの造語サティヤーグラハ(サティヤは真理、グラハは把握)は非暴力運動を象徴する言葉となります。ロシアの文豪トルストイは当時無名だったガンディーと文通を交わし、ガンディーの南アフリカでの非暴力の抵抗運動を讃えます。最終的にガンディーは南アフリカでのインド人への差別撤廃に成功しました。


【確認問題】
①ガンディーが自らの運動を表現するのに使った、「真理の堅持」を意味する語は何か。(慶應法)

②中国やインドからの移民で、奴隷制廃止後の不足した労働力を補うため、低賃金で過酷な労働に従事した人々は総じて何と呼ばれていたか。(早大政経)

③1880年代後半から90年代にかけての南アフリカへの人々の流入を促した要因と考えられる出来事を記せ。(東大)

☆解答は【大学入試問題】の最後に掲載



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