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共通テスト 2018年試行調査 世界史B 問題分析

 1990年から30年間続いた「大学入試センター試験」が2020年に廃止され、2021年から「大学入学共通テスト」が始まります大学入試センターは、2017年と2018年の2回、試行調査を発表しました。特に2回目の2018年試行調査は前年の反省を踏まえたもので、2021年の出題形式を予想する上で重要な教材です

 受験生は「共通テスト」の新たな出題形式を理解することが必要です。そこで、最重要の教材である「2018年試行調査 世界史B」の問題分析を試みましたこの問題分析を通じて、世界史選択の高校生に適切な学習の指針を示します。


2018年試行調査の問題と解答のリンクはこちら。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?d=110&f=abm00000594.pdf&n=世界史B_問題_h30.pdf

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?d=110&f=abm00000504.pdf&n=世界史B_正解等_h30.pdf

 受験生は必ず時間を測って、この問題に取り組んでください。復習の効率を高めるため、解いた痕跡を残しましょう。迷わず消すことができた選択肢の番号には「×」を、迷った選択肢の番号には「△」を、判らなかった用語や迷った部分には下線を引きましょう。たとえ覚えていないことが問われていても、すぐにあきらめてはいけません。問題文や資料から読み取り、類推する思考力が問われている可能性があります。じっくり問題文を読み返して、時間いっぱい考え抜きましょう


 全36問について、解答根拠がわかるよう解説を試みました資料から読み取り類推する問題では、その解答プロセスを示しました。問題文や、資料のどこが気づくべき点で、その知識をどのように活用すれば正解にたどり着けるのか。独学で身につけるのが難しいところに焦点を当てて解説をしています。直前期、社会科は特に得点力が伸びる科目です。効率よく学習を進める参考になると信じています。

 設問ごとに正答率も示しました正答率の低い問題は解説を丁寧に読んでください。見落としがちな気づくべき点に目が行くようになるはずです。2017年試行調査の問題と共通するテーマも最後に掲載しました。どんなテーマに出題者がこだわっているのかが判ります。よく練られた良問を深く理解して、楽しんでください


第1問

問1 答えは② イスラーム世界の拡大を地図で判別 正答率は53.1% 
711年イスラームのウマイヤ朝イベリア半島のキリスト教国西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島は一時的にイスラーム世界に組み込まれた。
ド=ゴール1962年アルジェリアの独立を認めたフランス大統領。1830年フランス国王シャルル10世アルジェリア出兵で、アルジェリアはフランスにより植民地化された。



【共通テストの傾向と対策】→大きな視点から文明の衝突が問われる
記念すべき最初の問題の解答根拠は、711年ウマイヤ朝による西ゴート王国滅亡イスラーム世界とキリスト教世界の衝突の始まりが問われた。西アジア文化圏とヨーロッパ文化圏の対立世界史という科目で何を学ばせたいのかを提示している


問2 答えは④ イスラーム圏とキリスト教世界の接触 正答率は59.3%  
1529年オスマン帝国スレイマン1世ウィーン包囲を行った。2017年と2018年の試行調査の両方でオスマン帝国のウィーン包囲を出題している。ヨーロッパがイスラームの脅威にさらされる象徴的な事例。現在のEUでイスラーム系移民の問題が深刻化していることを意識した出題だと考えられる。共通テストでは地図や絵画などの史料を多用することが予想される教科書に載っている地図を見るくせをつけるようにしよう。
13世紀からエルベ川以東ドイツ騎士団が中心となって東方植民を行った。


【共通テストの傾向と対策】→教科書の地図は大切
当時のオスマン帝国の都イスタンブル、神聖ローマ帝国の都ウィーン、ドイツ東部を流れるエルベ川の位置を教科書や資料集の地図で確認しよう


問3 答えは② 地中海世界の異文化の接触 正答率は54.9%
ポエニ戦争(前264〜前146)共和政ローマとカルタゴが戦った。③6世紀ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝は北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼした。ビザンツ皇帝ユスティニアヌスの政治は頻出事項。④1492年スペイン国王のイサベルとフェルナンドは、ナスル朝の都グラナダを陥落させて、レコンキスタは完了した。

<第1問 問3の解き方>
問題文の「接触した可能性がある勢力の組合せとして誤っているもの」を読んで、一瞬、何が問われているのか判らない受験生も多いはず。問題文を言い換えれば「接触した可能性がない組み合わせ」。だから「同時代には存在しなかった組み合わせ」となる。したがって答えとなる組み合わせは、メロヴィング朝マムルーク朝。フランク王国のメロヴィング朝751年ピピンのクーデタで滅び、マムルーク朝1250年アイユーブ朝のマムルーク軍団が強大となって建国した王朝。したがって、この2つの王朝は同時代には存在しなかった。

【重要ポイント フランク王国とマムルーク朝の対外接触】
732年フランク王国メロヴィング朝の宮宰カール=マルテルトゥール・ポワティエ間の戦いウマイヤ朝イスラーム軍を撃退した。
1260年マムルーク朝の第5代スルタンのバイバルスモンゴル軍を撃退

【重要ポイント 6世紀 ユスティニアヌス帝の政治】★ビザンツ帝国の最盛期
①ヴァンダル王国と東ゴート王国を滅ぼす
②ササン朝ペルシアのホスロー1世と抗争
③トリボニアヌスに『ローマ法大全』を編纂させる
④首都コンスタンティノープルにハギア=ソフィア聖堂を建設
⑤中国から養蚕技術を導入して絹織物産業を育成


問4 答えは② サハラ貿易の特色 正答率は69.4%
①の「生糸と銀の貿易」は、中国の生糸アメリカ大陸の銀の貿易。16世紀のアカプルコ貿易。②ニジェール川中流のトンブクトゥで「金と岩塩」の交易が行われた。③「毛皮・薬用人参」は中国東北の特産品。女真のヌルハチとの貿易で力を蓄えた。④「香辛料を求めて,ヨーロッパ人が進出した」のは大航海時代ポルトガルモルッカ諸島の胡椒を独占した。

問5 答えは⑥ 世界史上の旅行家・探検家についての理解 正答率は61.1%
問題文に、地図1は「1402年に作製された」、地図2は「地図1から200年後に北京で作製された」とある。したがって、地図1は1402年、地図2は1602年に作製されたことがこの問題を解く大きな手がかりになる。「ア」は1402年よりも前のこと。この時点で選択肢はbとdに絞られる。bは年号を知らなくても後漢の時代。dは14世紀に活躍した。地図1にはわざわざ参考図が掲載されている。解答のヒントを示すためだ。「ヨーロッパ」「アフリカ」「アラビア半島」とある。モロッコ出身の旅行家イブン=バットゥータの『旅行記』(『三大陸周遊記』)を意識したものだ。それを知らなくても選択肢dに「アフリカやユーラシアを旅行した」とある。じつは、地図の参考図と選択肢の文章だけで「ア」の答えがdとわかる。

「イ」は1402年より後で、1602年よりも前。この時点で選択肢はaとfに絞れられる。地図1には「描かれなかった大陸」が地図2に描かれることになる「地理的知識の拡大」が問われている。aはユーラシア大陸なので消える。fは南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過したので、これが「イ」の答えとなる。

タスマンのオーストラリア探検が17世紀クックの太平洋探検が18世紀アムンゼンの南極点到達が20世紀であることを知らなくても答えにたどり着ける。aが1498年、bが2世紀、fが1522年は覚えておこう。

【選択肢の年代】
a ヴァスコ=ダ=ガマがインド航路の開拓1498年
b 大秦王安敦の使者、日南郡に到達2世紀(166年)
c アムンゼンが南極点に到達20世紀(1911年)
d イブン=バットゥータが、アフリカやユーラシアを旅行した14世紀
e クックが太平洋を探検18世紀
f マゼランの艦隊が、世界周航を行った1522年


【重要ポイント 大航海時代の到来】
①1492年、ジェノヴァ生まれの船乗りコロンブスは、スペイン女王イサベルの援助によって大西洋を横断して、バハマ諸島のサンサルバドル島に到着した
②1498年、ポルトガル人ヴァスコ=ダ=ガマはアフリカ大陸南端をまわってインド西岸のカリカットに到達した
③1519年、ポルトガル人マゼランは、スペイン艦隊を率い、アメリカ大陸南端の海峡(マゼラン海峡)を経て太平洋に出てフィリピンに到着し、彼自身はそこで死亡したが、その船団の1隻は西進を続けて、1522年に初の世界周航を成し遂げた


問6 答えは③ 朝鮮半島への中国・日本の侵略 正答率は66.1%
豊臣秀吉の朝鮮侵攻→文禄・慶長の役(1592〜93・97〜98)前2世紀前漢武帝衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など4郡を設置甲午農民戦争は1894年日清戦争のきっかけ。武帝の外交甲午農民戦争2017年の試行調査でも出題



【重要ポイント 前漢・武帝の外交(在位前141〜87)】
①匈奴を撃退し、甘粛地方を奪って敦煌郡など4郡設置

②匈奴を挟撃するため、張騫を大月氏に派遣
③汗血馬を得るため、李広利を大宛(フェルガナ)に派遣
④衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など4郡設置→朝鮮半島北部まで支配
⑤南越を滅ぼし、南海郡など9郡設置→ベトナム北部まで支配


問7 答えは③ 現代のカナダの言語事情の特色 正答率は79.1%
aは1804年に独立して世界初の黒人共和国となったハイチ。b カナダがイギリス植民地になったのはフレンチ=インディアン戦争によって。1763年パリ条約でイギリスはフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。c ブルボン朝の時代にフランスが北米植民地として1608年にケベックを建設した。d 1757年プラッシーの戦いでイギリス東インド会社の傭兵軍を率いたクライヴが、フランスと地方政権の連合軍をうち破り、イギリス領インドの基礎を築いた。


【重要ポイント 世界初の黒人共和国】
1804年 ハイチ独立  <指導者>トゥサン=ルヴェルチュール
☆エスパニョーラ島の西半分→地図で場所を確認!

【重要ポイント 1763年パリ条約 ☆フレンチ=インディアン戦争の講和条約】
①フランス→イギリス カナダ・ミシシッピ川以東のルイジアナ
②スペイン→イギリス フロリダ
③フランス→スペイン ミシシッピ川以西のルイジアナ

問8 答えは① アメリカの移民の歴史 正答率は50.6%
1869年、アメリカで最初の大陸横断鉄道が開通した。鉄道を建設する労働力として中国人移民が増えた。第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは保守化した。1924年移民法で日本を含むアジア系移民の流入が全面的に禁止された。

【重要ポイント 1869年の出来事】
アメリカ大陸横断鉄道が開通
スエズ運河が開通 ☆1875年、イギリスがスエズ運河会社の株買収

この知識は共通テストが好んで出題しそう
大陸横断鉄道の開通で、アメリカは太平洋の先の中国市場をめざす。スエズ運河を手に入れたイギリスは植民地であるインド帝国1877年に成立させる。この鉄道と運河は、アメリカ・イギリスがアジアの2大市場へ向かう大きな足掛かりとなる
①大陸横断鉄道の開通 アメリカ→中国
②スエズ運河の開通  イギリス→インド


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