大福

たまに「東京の台所」というwebエッセイを読んでいる。

楽しいのだ。
いろんな人、いろんな人生、いろんな家族
いろんなライフスタイル、いろんな職業
いろんな嗜好

今日はあるエッセイをみて、なんとも言えない気持ちになった。

https://www.asahi.com/and/article/20221207/423369826/

簡単にいうと妻が病気で亡くなり、思春期+不登校の娘と二人暮らし。
会社員としての仕事は勿論、父親として家事や料理に日々勤しんでいる。
しかも、毎日スーパーに寄り、その日のうちに食材を使い切る。
野菜を嫌がる娘のために、少しでも食べやすいよう、毎朝野菜スープをこしらえているらしい…。

私はまったく赤の他人、しかもシビアなので
「一日中家にいるんだから、娘がちょっとは家事やれよ、お父さん優しすぎん?」
と思った。

お父さんも、娘にイラついてしまった時に
自分がどうなるかわからないという不安から
断酒しているらしい…。

でも。
「母親を亡くした。しかも母親は最後まで不登校の私を心配していた。」
娘の気持ちを慮かる親として「できることをやらなきゃ。」という気持ちが 彼を動かすのだろう。


ふと実家を思い出した。
「私ばっかり、本人はなーんもやもん。」
といっていた。

はたからみると「もうそこまでやらなくてもいいじゃん!」と思うのだが…。
指摘しても「そうなのかな?」という調子。
つまり、ものすごい献身ぶりに自分では気づいていないのである。

でも悲しいかな。
きっとその献身は、ほんとうに相手から求められていることとはきっと違う。
だから報われないのだ。
でも、不安だから、さらに献身してしまう。

美しく言えば「献身」なのだが
不安に飲み込まれることが怖いから
必死に「良い」とされている行為を一方的に与え続けているとも捉えられる。

何がプラスになるのかわかんないけど
何もやらなかったらもっと状況が悪くなるかもしれないから、何かやらなきゃ。

このエッセイの親子は分からない。
献身が的を得ていることを祈る。
家政婦という職業をもし私がやっていたら、手伝いに行きたい。

わかりやすい形ではなくても
徐々にでも
時間がかかっても
後戻りしながらでも

献身を呼び起こす気持ちの奥に小さく佇んでる
小鹿の目のように純粋な気持ちのみ
伝わればいいのに。
そこだけ感じとれればいいのに。
どうして、まわりの感情ばかり前面に押し出され、本当のことはうまく伝えられないし、伝わらないこともあるのだろう?

真意は大切に包みつつ、まわりの感情が真意を押しつぶさないよう。
かと言ってまわりの感情を否定するでもなく
うまくバランスをとって生きていければ。
コミュニケーションできれば。
どんなにか良いだろう。

餡がメインだが、求肥があってこその
大福をイメージして

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