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くるみ割り人形と私の長い1日

2021年12月4日土曜日午前10時。いすみ市を出発してから2時間弱。
私は渋谷Bunkamuraのオーチャードホール横の当日券売り場に着いた。

すでに3人の女性が並んでいた。私は4番目。
お目当ては12月4日土曜日13時公演の熊川哲也監修のKバレエカンパニーによる「くるみ割り人形」の当日券だ。

当日券が買える保証はどこにもない。
幼い息子が私の横にピタリと並び、顔をあげ真っ直ぐな目で聞いてきた。
「ねぇ、いつになったらはじまるの?」
もう少し、待っててね、と言うと、コクリと頷き、ホールの入り口広場にかけて行った。
「ママ、見てー!!」
広場で飛んだり跳ねたりしてる。これから始まるバレエが楽しみで仕方ないのだ。見れる保証もないのに・・・。私は息子に何も言えないでいた。

どうして私はここにいるのだろうか・・・

私は何ヶ月も前にこの日の予約チケットを取っていたはずなのに・・・


2021.06.20

息子の通うバレエ教室の発表会があった。
今年の演目は「くるみ割り人形」

息子達baby科は可愛いネズミ役。息子はbaby科の最年長クラスだったので、出番も多く難しい振り付けもあったが、皆で見事に演じきった。息子のバレエには反対していた夫も感動してくれた。
内緒で通わせていた日々が走馬灯のように駆け巡り、立派に舞台に立った息子が誇らしく、とても良い1日だった。

「本物のくるみ割り人形を見せたいよね」


同じバレエ教室に通う友人ママとKバレエカンパニーの「くるみ割り人形」を観に行こうという話しで盛り上がった。人気演目だから、チケットを取るのは簡単じゃない。コロナの影響でネットでは1度に3枚までしかチケットを取る事が出来ないので、お互いに別々で取ることになった。
8月7日の先行予約発売ネット受付開始と同時にパソコンにへばりつき、なかなか予約画面につながらないなか、なんどもLINEで日程と席の確認をしながらやっとの思いで12月4日(土)の3階C席の親子席を取った。

カレンダーにも手帳にも12月4日の欄に「くるみ割り人形」と赤い文字で記入し、息子も私もこの日を夏からずっとずっと楽しみにしていたのだ。

いよいよ近づいてきた

11月下旬、チケットはコンビニで発券しなければならない。そろそろ発券しなければならないと思いつつ、早めに発券したら失くしたりしそうなので、ギリギリでいいかなと思っていた。2〜3日前でいいや。安易に考えていたら、前日まで発券するのを忘れてしまった。
夜になって気がついたが、田舎なので一番近いコンビニでも車で行かなければならない。道は真っ暗だ。
「俺が早朝に取ってきてあげるよ」
夫が優しい言葉をかけてくれた。
「ありがとう」

しかし夫にこのような事(この場合はメールにある発券番号をレジで伝える)を頼むと双方の認識に違いがあった場合などに、激怒されるという事が多々あるので、私が早起きして取りに行こう、と心の中で思って寝た。


朝、夫より早くコンビニに寄る為に早めに起きて、予定していた出発時間よりだいぶ早く出発できるようにした。
しかし、出る直前になって息子が着ていくはずの服が見つからないと言い出した。クリスマス模様のセーターをこの日は着ていくと前から決めていたのだ。「昨日、準備していたのに」と私が息子のセーターを探してる間に、夫が早々とコンビニにチケットを取りに行ってしまった!
朝から何かあったら嫌だな、と胸騒ぎがしていたが夫はすぐに帰って来てチケットも無事に取ってきてくれたのだ。
私は安堵した。
そして今まで夫の事を疑ってた自分を恥じた。

「ありがとう。すぐ出来た?」と聞いたら
「それが、レジに持って行ったら、レジのおばちゃんが「担当の者が只今、トイレに入ってるのでちょっとお待ちください」って言って、だいぶ待たされて、あんまり長いから「まだですか?」って言ったら「トイレが長いんです!!」って言われて、本当にすっごいトイレ長くて・・・」
と夫が言うので
「嘘でしょ。トイレとか普通、言わないでしょ。話、作らないでよ」と笑ったら「それが本当なんだよ!」と言われ、確かに、いすみならその対応もありえる・・・などと思いながら、笑いながらチケットを受け取った。
全くの平和な朝だった。
チケットの中身を確認するまでは・・・

チケットの日程が12月3日(金)


「え?」

封筒からチケットを出してみて「おや?今日は12月3日だったのかな?」と思った。目の前の状況を脳が正しく処理できなかったのだ。しかしスマホの画面にはしっかり12月4日と今日の日付が出ている。発券の手続きをメールでしたのが12月3日だったからこの日付になってるのだろうか?
脳内はパニック状態であるが、目の前の夫と息子に悟られるわけには行かない。
私は平然を装い続けた。
「も、もう行こうかな」
とりあえず、ここに居るわけにはいかない。夫から離れた場所でゆっくり状況を確認したい。出発時間よりだいぶ早かったが、普段から出発時間よりだいぶ先に出るタイプの夫は、何とも思わず、駅まで車で送ってくれた。
「楽しんできてねー!」優しい夫。
いつまでも夫に手を振り、ウキウキしてる息子。
私は予定より1時間も早い特急列車わかしおに乗り込み、席に座りながら、もう一度、ゆっくりと落ち着いてチケットを確認してみた。

「12月3日12時開演」

何度見ても、どう読んでも、それ以上の情報は書いてなかった。今日は12月4日。チケットは12月3日。前日のチケットである事がやっと理解できた。

どうしよう・・

薄々、自分の至らなさには気づいていたが、ここまで病的だったとは思ってもみなかった。
日程が違っても、もっと早くに気づいていたら、友達に謝って金曜日に観に行ったのに・・・。
どうして当日までちゃんと確認しなかったのだろう。
確認メールにもよく見ると日程が12月3日と記載されている。
私は自分の不甲斐なさを悔やんだ。もっと早く気づいていれば・・・。
悔やんでも、悔やんでも、現実はただ、ただ、前日のチケットを握りしめて、いすみから渋谷にバレエが観れると喜んでる息子を連れて向かっているという事実だけだ。


息子には何も言えなかった。いつもより上機嫌で、電車からの景色を楽しんでる。3人兄弟の真ん中で1人だけ男である息子は普段は夫と過ごすことの方が多い。ママを独り占めできる事にも浮かれているようだ。

しかし、どう考えてもおかしい。私は本当に友達とLINEのやり取りをしながらきちんと12月4日のチケットを予約したはずなのに。
遡って8月の友人とのやり取りのLINEを見てもしっかりと自ら「12月4日取ったよ」と書き込んでいる。
これは予約システムのミスじゃないのか?もしかしたら私の他にもそういう人が複数いて、日程が違っていても入れますという事になってたりするのじゃないか?

このチケットを持って行き、何かシステムにトラブルがなかったのか、係の人に相談してみよう!

今なら「アホか!さっさと帰れ」と思うのだが、その時の私はパニックに陥ったあまり思考回路が麻痺し、解決策を見つけた気になり、真っ当な思いで渋谷に向かっていたのだ。

オーチャードホール

寒空の中、開場前で全く賑わっていないBunkamura オーチャードホールに到着した。そこに居たのが冒頭の女性3人である。
「すいませんー!!」私はすぐさま並ぶ女性達に声をかけた。
この早朝からのパニックを誰かに伝えたかったのだ。
「ええ!?」
「何で昨日発券しなかったの!?」
「昨日のその席は空いてたって事!?なんてもったいない!!」等々、初対面にも関わらず、暖かく反応してくれ、共感してくれた。私は心からホッとした。
こんなにも人に悩みを打ち明けるのが救いになると実感した日はない。
そして今から、ここで何枚あるかわからない当日券の為に並び、12時の販売と同時に買えるかどうか判断するしかないという現実を教えてくれた。
そして、このチケットがいかに入手困難で、当日券が何枚あるのか本当にわからないという事も。
並んでる女性達も色々と納得できる理由でここに並んでいたが「チケットの日程を間違えていたのを当日に知った」という理由で並んでるのは私だけだった。もちろん、房総から3時間かけて来ているのも・・・。
時計はやっと10時をまわったところ。本当だったら渋谷の駅前に11時に友人と待ち合わせしており、一緒にランチしながら12時半までに会場に向かう予定だった。しかし私は12時に受付が開くまでの2時間、この寒空の下で、取れるかもわからない当日券を求めて並び続けなければならないのだ。

「11時の待ち合わせに間に合わない!」


私はこれまでの経緯を待ち合わせしている友人にLINEで送った。
友人がびっくりして電話をかけてきてくれ、渋谷に着いたら息子だけ連れてランチに言ってくれるということになった。
息子はすでに飽きていて、歩道に並ぶ銀杏の木に登ると騒ぎ出していたのだ「よく見なさい!登れる枝がないでしょう!!」
歩道に並ぶ銀杏の木は真っ直ぐに伸びており、手前の枝は全て剪定されているのだ。しかも横は車道。命がけの木登りになってしまう所だった。友人がいてくれて本当に良かった。しばらくして友人が来てくれ息子は喜んでついて行った。3分ほどの所にマックがあるからそこで待ってるねと言ってくれたので、とりあえず千円札を息子に渡した。かばんに入れようとしたら自分が持つと言って聞かないので、失くさないでね、としっかり握らせた。


3人の女性達

私の前に並ぶのは2人組の女性と1人で並ぶ女性。2人組の女性達はKバレエのファンクラブにも入っており、他の公演を全て抑えてる上で、この公演も観れたら観たいという事で並んでおり、バレエにはかなり詳しく、ご自身も娘さんもバレエをされてるという方とそのお友達という2人組、もう1人の女性もやはりバレエをされていてかなり詳しい。手違いでチケットが取れていなかったという点は私と似たような境遇であった。彼女も12時になったら娘さんが来るそう。この時点でチケットは6枚なければここにいる全員が観ることはできない。私は一番最後の4番目だ。不安しかなかったが、
「当日券が発売されるってことは10枚くらいはあるはずよ」
と何度も励ましてくれた。親切にカイロをくれたり、色々なバレエの話も聞く事が出来て、とても楽しく有意義な2時間を過ごす事が出来た。




受付開始30分前


30分くらい前になるとスタッフと思われる方達が会場周辺に集まり出し、準備を始めた。当日券売り場にも気がつくと私の後ろに10人以上の人が並んでいた。案内の男性がソーシャルディスタンスを保って離れて並ぶよう指示してきた。私たちは離れて並んだ。
案内の男性は手の中の機械でカチカチと数をカウントし始め、
「当日券にお並びの方はこちらになります。数にご用意があるかはわかりませんのでご了承ください」とアナウンスした。
並んでる人たちがザワつき後ろに並ぶ男性が「枚数だけでも教えてくれ」と駆け寄ったが「知らされていない」の案内だけだった。
数枚しかなかったらどうしよう・・・

私は息子に何て説明したらいいのだろうか。
8月のあの日から、今日この公演をずっと楽しみにしてきたのに。
取り戻せない時間と、過ちを悔やみながら私は祈り続けた。
「もし連番があったらあなたに譲るからね」
前に並ぶ女性達が離れた距離から言ってくれた。
「私たちは大人だから別々の席でも観れるけど、息子くんは可哀想だもの」

連番じゃなきゃダメ・・

元々が親子席で取っていたのですっかり連番の気でいたが、当日券というのはキャンセルが出た場合だけの座席数も場所も全く読めないのだ。
6枚のチケットが残っているかどうかもわからない上に連番があって欲しいなど、そんな贅沢を言える立場ではないが、バラバラの席だった場合、息子がちゃんと観れる気がしないし、会場に入ったが最後、2度と会えないような可能性だってある。7歳男子、不安要素しかない。
神様への祈りもだんだんと切羽詰まってきた。
その時、LINEが鳴った。息子をマックに連れて行ってくれた友人からだ。


「息子くん、1000円落としちゃったみたい」

「ぎゃふん!」落とさないようにねって言ったのに!だからカバンに入れようとしたのに!たった3分の距離でどうやって落とすのよー!と思ったが、これは厄落とし出来たかもしれない。一筋の光が見えたような気がした。



12:00 当日券発売開始

長く待ち続けたシャッターがやっと開いた。
先に並んでいた2人の女性が受付にお金を支払っている。
「あったわよ!連番!大丈夫!!」と購入前に後ろにいる私達に教えてくれた。私の前に並ぶ女性が言った
「全部S席ですって!」
私の番がやってきた。本当に何箇所かだけ開いてる座席を案内された。
連番で取れるのは舞台にかなり近い列の右端か、舞台からはもう少し離れるが真ん中の席だ。
ちょうど並んでる時に、ファンクラブの女性達が目の前で観るよりも舞台全体が観れるくらいの場所がいいと教えてくれていたので、私は真ん中の席にした。息子とも隣同士だ。2時間も待って、席が取れた事が本当に夢のようだった。

「2万6千円になります」

おおぅ。もともととっていたチケットの倍の値段。さらに私はc席のチケットも購入しているので今回3万9千円でチケットを購入した事になるが、そんな事はどうだっていいのだ。
大切なのは息子と友人と今日、この時間にバレエを観るという事なのだ。
「神様、ありがとう」
私は心から感謝した。
やっと現実に戻ってこれたような気がした。
今朝、チケットをみた瞬間から、脳内で私はずっと彷徨っていたのだ。
やっと現実に戻ってこれた。
私の長い長い1日が無事に終わったのだ。
チケットを握りしめ、一緒に並んできた女性達と喜びを分かち合った
「最初に取っていた席よりずっといい席ですよ」と言ってくれた。

夢のような舞台

すぐに友人と息子の元へ向かい、無事にチケットがゲットできた事を伝えた。「信じてたよ」と友人も喜んでくれた。

受付でチケットを見せ、係りの人が日付を確認して半券を切る。チケットがこんなにも尊く感じるなんて。ゲートを通れた時にはもう感極まってすでに泣きそうになってしまった。

席を確認して座る。
舞台が近い!!!
オーケストラピットがよく見える。演奏者の顔が認識できるくらいの距離。

演奏者が一つの音を出す。始まりの合図だ。
幕が上がった瞬間から、今まで観たことのないような舞台が始まった。

くるみ割り人形のバレエは何度か観ていたが、演出もダンサーも音楽も全てが素晴らしくて、本当に夢のような舞台。
息子は感動し、両手を広げて何度も大きな拍手を送っていた。
今まで、S席なんて、と思っていたけれど、これからは絶対にS席で見ようと心に誓った。
本当に夢のような1日だった。
この歳になって、こんなにヒヤヒヤドキドキする事が起ころうとは。
私って本当に何なのだろうと思いながら無事にいすみに帰り、やっと夫に全てを打ち明ける事ができた。
「全部ウソでしょ?」と夫に言われたが、
私の財布には、4枚のチケットと、一緒に並んで知り合った女性の名刺が入っている。これは現実なのだ。




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