不可視の障壁(貝楼諸島 島アンソロジーより)

 犬と街灯さん主催の『島アンソロジー企画』に参加させて頂きました。
どんどん広がっていく貝楼諸島の旅のついでに、長蛇島へもお立ち寄りいただけましたら嬉しいです。

 ※作中の『ピュロラーク』の用語は
 鞍馬アリスさんの同名の作品より拝借しております。

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 二十年前に録画した洋画を見てみようと、ビデオデッキにテープを差し込んだ。カルトなファンを持つサスペンスの名画だがDVDも廃盤。中古品は手に入らない程のプレミアがついている。戸田清吾は身を乗り出して再生ボタンを押した。
 ビデオは丁度、午前零時のNHKニュースの時報から始まっていて、耳に刻まれる独特のサウンドを聴いた瞬間、平成初期の記憶が匂いを帯びるほど鮮やかに蘇ってきた。

 ざぶん、と岸壁から海へ飛び込む音が脳漿の奥で聴こえる。故郷の中学校の校区は全域が海岸と目と鼻の距離にあり、学校の帰りに皆でよく海に飛び込んだものだ。
   水着なんかは持って行かない。下着のまま飛び込んで、ナイロン袋に絞って入れて帰る。

 ある日、仲間の一人だった中井達也が先に飛び込んでいた俺ともう一人の友人に
「貝楼諸島って変わった島があるの、知ってる?」と訊ねた。
「聞いたことない。どんな島?」
「神話が残ってる島なんだ。日本神話とはまた違って。何年か前にお父さんに長蛇島ってところに連れて行ってもらったことがあって」
 中井は珍しく饒舌だった。普段は大人しく、あまり自分の話をするタイプではなかった。
「へーどうだった? 楽しかった?」
「その島で遭ったんだ、ケンタウロスに。…変に思われるかもしれないけど」
 俺とその場にいたもう一人は返答に困り顔を見合わせた。
「それってどういう意味?」
 話が現実から乖離しすぎていて、笑い飛ばしたり嘘だろうと茶化したりできるような雰囲気ではなかった。本人も恥ずかしそうにしているし、からかっている様子でもない。
「…ごめん、やっぱり嘘。今の無かったことにして」
 中井はそれだけ言うと再び俯いて海に潜ってしまった。
 俺たちは中井の話を受け止めてやることができず、時報が響く夕闇の中ひたすら足だけを動かして家路についた。


 映画を観ていても前ほど内容が入ってこなかった。昔のことの方が心に引っ掛かって仕方がなかったのだ。
 映画を半ば惰性で観ながら長蛇島のことを検索すると、島の名前はちゃんと検索エンジンに引っ掛かった。中井があの日口にしていた『カイロウ諸島』とは『貝楼』という字をあてることも初めて知った。
 検索結果のほとんどは『衝撃! 日本の不思議スポット10選』といった類の三文ネット記事だった。人馬に限らず奇妙な生き物たちが生息していると古来より近隣の海域に住む人々に言い伝えられているが、貝楼諸島の島民の出入りは厳しく制限されており真相は不明。
 戸田は貝楼諸島の記事を読んでいて、ある種の違和感を覚えた。噂自体はよくある都市伝説風に寄せられてはいるが、実態は真逆ではないかという気がしてならなかったのだ。

 貝楼諸島について書かれた記事からは話を信じさせようという意図がまるで感じられない。それどころか貝楼諸島がどの都道府県の海域に浮かんでいるかも書かれておらず真に受けないでくださいと念を押されているようだ。

 貝楼諸島を訪れるには島の観光協会が提携している各県の旅行代理店からガイドと共に入島する必要がある。旅行代理店の一覧表はサジェスト検索を繰り返すことでようやく辿り着くことができた。検索を続けると、表層に出てくる三文記事の類は見られなくなる。
 戸田は湧き起こる好奇心に戸惑いつつ、代理店に電話をするくらい構わないだろうという気になっていた。どうせ閑職なのだ。有給だっていくらでも残っている。

 コールすると若い男が出た。抑揚はコントロールされており、誠実そうな温かみもある。
「すみません貝楼諸島の長蛇島へのツアーを検討しているのですが。そのう、ちゃんと実在する島なんですよね?」
 電話口の男は少し笑って
「もちろんです。悠久の歴史と美しい神話が残る島ですので、貝楼の文化を守るために伝統的に外界との距離を保っているのです。どうぞ代理店までお越しください。長蛇島の魅力をお伝えできると思いますので」

 男は名を野山と名乗り、代理店の行き方を丁寧に伝えた。代理店は戸田が住む地域の中心地にあり、マンションからもほんの数駅の距離だった。
 戸田はビデオテープを巻き戻し、息をついた。
 中井は同じ中学の者が誰もいない高校へ進学し、今はどうしているのかも分からない。 あの日の帰り道の中井は、大袈裟な話をした気恥ずかしさも勿論あったろうが、ひどく怯えていたせいで声を発せなくなっていたようにも思うのだ。
 戸田は中井の面影を思い浮かべながら目を閉じた。

 繁華街の雑居ビルに旅行代理店はあった。エレベーターを降りると埃っぽく、何とも寒々しい。同じフロアに入居しているテナントは例の旅行代理店だけで、あとはシャッターが閉じられているという有様だった。あまり流行ってなさそうだが、乗りかかった船である。
 しかし扉の中に入って係の男の顔を見ると一転、ほっとした。
「改めまして、担当の野山です。戸田様ですね。お待ちしておりました」
 野山の顔は血色がよく純朴で、どう見ても人を騙すようなタイプには見えない。
「昔、長蛇島に行った知り合いがいまして。人馬なんかがいるみたいですね」
「あはは。はい、人馬伝説は残っています。周辺の島には人魚伝説や、珍しい貝の伝説も。これらはピュロラークと呼ばれて島の人たちから大切にされています。島に行けばこれらの古の神々を祀った神殿や資料館を見ることができます」
「すごい。確かに神秘の島ですね。日本にあるとは思えない」
「僕も何度訪れても圧倒されます。外界から隔絶した恵まれた地形と秘密保持を徹底したお陰でしょうね。そのせいで噂が独り歩きしている部分もありますが、何もおかしなことはありません」
「どうして人馬伝説が生まれたのでしょう?」
 野山はにこりと笑い、戸田に暖かいほうじ茶を差し出した。
「長蛇島は瑪瑙が採掘されるのです。ピュロラーク神話は神代に起こったとも言われていて今も謎に包まれているのですが、島では瑪瑙に人馬の魂が宿ると言い伝えられています」
 野山の話を聞いていると次第にうずうずしてきた。奇怪な生物たちは存在せずとも、なんと壮大なロマンがある島なのか。
「ぜひとも正式にツアーを申し込みたいですね。お願いできますか?」
「勿論でございます。一応、貝楼諸島で見たことは口外しないと誓約書を書いてもらうことになっています。これも島の文化を保持する目的でのことです」
 戸田は野山が用意したツアーの契約書や、誓約書の書類を埋めながら
「貝楼諸島は日本のどの辺りにあるのでしょうか」と訊ねた。
 野山は少し困った表情になり
「それは今の時点ではお伝えすることができません。ですので、当日は私と新幹線でご移動いただきまして、最寄りの港から船に乗り換えるという行程になります」
 どうしてそんな周りくどいことをするのかという問いが喉元まで出かかったが、ぐっと我慢した。沖縄の方にも、それに海外にだって一般人の立ち入りは禁忌だという島はいくらでもある。貝楼諸島が特殊な事情を抱えた島だということは重々承知の上じゃないか。
   とにかく無理矢理にでも合理化して納得した。

 戸田は旅行代理店を後にしてオフィスビルが立ち並ぶ街区を独り歩いていると、ある種のイメージに囚われるようになった。この流れは先にレールがないジェットコースターに搭乗してしまった状況に似通ってはいないか。そんな破滅的なイメージが頭をよぎり、そのイメージに呑み込まれる気がしてならなかった。分かっている。危ない。
 戸田は深呼吸して心を落ち着かせた。

 スクランブル交差点を渡り、対向する通行人たちをするすると縫うように躱してゆく。大丈夫。今までもずっと平気だったじゃないか。
 しかし降りるタイミングが分からない。

 当日、野山と新幹線駅の改札口で合流した。客は一人しかいないのに『歓迎! 貝楼諸島ツアー』と小さな旗を胸元に持って、ぽつんと所在なさげに立っていた野山だったが戸田の姿を見つけるやいなやとぱっと明るい笑顔に戻った。
「おはようございます。すみません、大変面倒な手順になってしまいまして」
「いいさ。個人的に思い入れがある島だから。それよりいい笑顔をするってよく人から言われないかい?」
「そのう、それはどういう意味に受け取ればよいのでしょうか」
「なあに、意味なんかないさ」 
 ポカンとする野山を尻目に戸田はそそくさと新幹線の改札口をくぐり抜けた。そして窓際の座席に深く腰掛けて、何ヶ月かぶりにFacebookを開き、長蛇島のことを投稿した。
『これから噂の貝楼諸島の長蛇島ツアーに行ってきます。不思議な生き物はいないみたいですが、楽しい旅になりそうです』
 なあに浮かれてんだか、柄にもなくみっともない。

戸田はスマートフォンをジャケットのポケットに仕舞い、自嘲気味に苦笑いした。結局そのあと、戸田が再びスマートフォンを起動させることは二度となかった。彼はコメントが来たことすら知ることができなかったが、公開設定が全体に指定されていたため投稿に一件、中井達也からメッセージが寄せられたのだ。
『ピュロラークは、いる』と。


 港まではタクシーで向かった。

 長蛇島への最寄りの港は、なんてことはない長閑な田舎の漁港だった。
「なんだ、普通のところじゃないか。あんなに隠さなくても良かったのに」
 野山はいつもの彼に似合わない平板な声で
「貝楼諸島は浮遊している島ですから」とだけ言った。
「ひょっこりひょうたん島みたいだな! あっ野山君はまだ生まれてないか」
 戸田なりに不穏な空気を和まそうと冗談を言ったつもりだったが、野山は無言だった。こういうおじさんの軽口は若者からは嫌われてしまうのかもしれない。
 二人は船着場で操縦士と合流し船に乗り込んだ。
 船と言ってもモーターボートに毛が生えた大きさで、操縦士の背中にもすぐ手が届く狭さである。乗員も四人も乗ったら満員といったところだ。それでも馬力は随分あるようで、滑るほどの勢いで海の上を航走していった。
 長蛇島の島影が見えてくるうちに、戸田の胸の内に次第に不安の雲が膨らんでいった。
 空は晴れ渡っていて、輝く太陽は健康そのものだ。海だって光を受けてきらきらと輝いている。恐ろしく感じるところは一つもない。
 しかし、どうしてだろう。超えてはいけないラインを突き抜けようとしている気がする。

 超えたら二度と帰って来られない常識のライン。こんな加速度で進んだら分厚い障壁にぶち当たって、粉々になってしまう。
 島の岸壁に、大型の生物の影が見えた。船は変わらず凄まじい速さで島に近づいていく。

 戸田はまずいと思った。高層マンションの腰壁から飛び降りることを妄想したときのような、ある種の感覚が戸田を支配した。岸壁の生物と目がかち合う。絶望の中虚空に手を伸ばしても何も掴むことができないとき、二秒後にどうなるかありありと頭に浮かぶ。常識が、現実感覚が壊れてしまうラインを超えていく……。
 …超えた。戸田の中で何かが弾け飛び、最期に彼はニヤっと笑った。
 構うもんか。人馬だって、この際人魚だって。何だって来いってんだ。

   野山は戸田の様子がおかしいことにようやく気づいた。
「戸田さん、落ち着いてください!」
 野山が叫んだときには戸田はもう、競泳選手と見紛う美しいフォームで右舷から海へ飛び込んでいた。
 野山も顔から血の気が引いて蒼白になり、今にも倒れそうだった。
「戸田さん!」
 野山が絶叫するのと同時に、船尾からガギッと鋭く嫌な音が響いた。
 澄んだ海に大量の鮮血がぶしゅうと噴き出て、海面が赤に染まった。

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