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2024/4/9 日記

お花見がこんなにも気持ちよく
さくらを愛でるという行為を心と身体が求めてやまないものだと知ったのは
大人になってから、つい最近のこと。

小学校、中学校、高校、大学と
通っていた頃は気づかなかったけれど

春はさくら、秋は紅葉など、校内では歩いているだけでふと季節を感じられた。

そんな環境を離れ社会に出て働いてみて初めて、
花見とは、自ら足を運ばなければできないことなのだと知った。

前々から開花の時を予想する。
そして満開かつ、雨風にその花びらを落とされてしまう前のちょうど良いタイミングに、ちょうど良い場所へと出かける。

そうした心づもりと計画がなければ、ニュースで自分の住む地域の開花情報を知り、天気予報ですぐに雨が降ることを知り、
葉っぱをこんもり茂らせた桜の木を見て、ああ今年も見れなかった、と肩を落とすことになるのだ。

若い緑の葉が混じるさくらも、それはそれでとても綺麗なのだけど
やはりあの満開の幸福感とは違う。

今年は特にお休みをとって花見に出かけることはないけれど
仕事場の近くの桜が色づき始めてからは毎日
仕事終わりにふらりと散歩にでかけた。

ちょっと風が強いしやめておこうかな、と思う日も、
その素朴で、でも可憐で、華やかに広がるさくら色に誘われ、足が勝手に動いてしまうのだ。

ぽん、ぽん、と枝にまあるく集まった花々。

遠目に見れば圧巻の景色。
近くで見ればひとつひとつ、その花の形と色の繊細な美しさに目が離せなくなる。

満開のさくらの木の下に立ち
全身にその華やかであたたかい光を浴びれば
何をしたわけでもない
ただここにいる私が
祝福されているような気持ちになる。

さくらが咲く間は、なんでもない仕事終わりのほんの少しの時間が特別に感じられた。

きっとこの木は、こうして長い間
たくさんの人を癒してきたんだろうなぁ。

今年もやはり散ってゆき、いつの間にか、あたりまえのように美しい緑が萌える。
そして夏になる頃にはきっと、これがさくらの木であることなど誰が気にすることもなくなる。

だけど不思議と、悲しい気持ちにはならない。

人を喜ばせるためにあるのではない、さくらのいのちの営みであるからこそ、
来年も、再来年も、きっとこうして花を咲かせてくれると疑わずにいられる。

ありがたいなぁ、うれしいなぁ。
また、来年ね。

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