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自己陶酔でいいのだから

去年に書いた、どれよりもお気に入りで
大切な文章。 人生の指針。

今から書くことは一般的に随想と呼ばれるものだけれど、私はまるで小説のように書きたいと思う。
私の人生は小説のようにロマンに満ち溢れていて、煌びやかで、ドラマチックだからだ。
少なくとも、自分の中では。
そう、他人にとってはありふれたただの女学生の人生。小説のように高尚な物語だとは思わないだろう。ありふれているのに固有の美しさがある、それが人間の人生である。 だからあなたの人生は私の人生と同様にこんなにも美しいものであると、そう伝えたい。だれもが人生それとしての美しさ、きらめきを持っているのだから。

と、なんとも詩的な書き出しで始めてみるわけだが、わたしの人生が生命としてはっきりとした輝きを持ち始めたのはつい最近のことである。そもそも光というものは暗い部分があって成立するのだから当たり前だ。 わたしの人生がハッピーエンディング(まだ終わってないから現在進行形)なのは分かって貰えただろうし、とりあえずちょっと辛かったあの頃を語ることから始めようと思う。

小説のように随筆を書くといったけど実はそのどちらでもない、これは文学ではない。 自由にできるから、たまにこうやって脚注を付けてみようと思う。隅に落書きするのは好きだから。


アイデンティティを求めて生きていた。
皆そうだけど私は異質だった。普通の人が人生という長い道をゆっくり歩きながら探しているとするのならば、私はその場を素手で必死に掘っているような感じだ。
その時の私が考えるアイデンティティは、レースとリボンとピンクだった。性別なんて価値観で人を縛るのっておかしいよね、と多様性(笑)が求められる中、私は必死に「おんなのこ」にしがみついたのである。そしていかに女性でなく少女でいられるか、いかに少女としての自分を変えないでいられるかに固執した。今思えばその固執が逆に少女性をころしていたような気もする。そもそも少女性なんてセーラー服を脱いだ瞬間に消えるような脆いものだった。
人生に向き合うということにおいて、何もかもが中途半端だった。未来を考えもせずあいまいな少女性という概念に憧れながら、日々を適当に消費していた。

その頃私は大学 1 年生だった。
コロナウイルスとかいう可愛い名前のくせになんにも可愛くないヤツのせいでキャンパスライフはぶち壊れた。四角の中の先生、四角の中の友達。どうせそうならこっちの方がいいじゃん、とSNS の世界に逃げたりした。
それでもたまに勉学に本気になってみたりもした。エドガー・ドガの絵画について英語でレポートを書いた日のことは鮮明だ。儚く昇ってきた朝日を見て、今この瞬間私は美学のために一夜を明かしたんだ、と感動したものだ。あとは生命倫理を本気で考えて泣きながらプレゼンを作ったこともあった。
私の人生の輝きの片鱗はそういう所から見えつつあった。

世界がミクロにしか見えない zoom の機会が少しずつ減って世界がマクロに、そしてレンズではなく肉眼で鮮やかに見え始めたのは二回生の秋になってからのことだった。マスクで覆われている嗅覚以外の感覚器官が外の世界に機能し始めた。冷たさが皮膚に直で触れて季節を感じるこの感じ。暖房がまだ着かなくて寒いけれどもワンルームに独りでいるよりはずっとあたたかい講義室。

友達とあれこれ相談してとる事を決めた哲学の講義を受けて、私はショックを受けた。雷に打たれる、というよりは停電した世界に突然眩い光が現れるような、そんなポジティブなショックだ。

哲学専攻の学生らしく言うと、
私はまさに啓蒙 enlighten されたのである。

と言うと、それはまるでイマヌエル・カントが理想としたような高尚な啓蒙だと誤解されるかもしれない。でも私は別に人間が辿り着くべき善を見つけたわけでもないし、自分が倫理的な人間になったと言うわけでもない。そんな大きな照明ではなく、もっと小さな個人的な照明___私は自分を見つけたのである。倫理学、美学を中心とした哲学に熱中する自分を。
「おんなのこ」としての容姿を追い求めることと、哲学を追い求めることのどちらが善いかとかそういうことを言いたいわけではない。私にとってたまたま自分の中の少女を追い求める行為が苦で、哲学が快であっただけである。ただそれだけのことを発見して、わたしはわたしとして生きることが楽になったのである。

こう書いちゃったけれど、今も「おんなのこ」らしいことをするのは好き、お洒落もメイクもぶりっこも。

そう、だから、別にあなたに哲学を勧める訳では無いけれど、やっぱり何故哲学が好きかについては語りたいから語っておく。
普通こうして小説や物語や何かしらを読む時、それはフィクションとして読むから(ノンフィクションにしても、やはり自分と切り離して読むから)直接的に人生に関わっては来ない。間接的に関わってきて、わたしもこの主人公のように強く生きようとかやさしく生きようとか思うことはある。
だがそれはそういう時があるというのに過ぎなくて、必ずしも与えてくれる訳では無い。

かといって自己啓発本のような「あなたの人生を変える!」と銘打った本は性に合わなかった。
ああいう本は私にとって温度が熱すぎる。体育会系の人に感情的に頑張れ!と言われているような感じがして、むしろ気落ちしてしまうのだ。

だから私は哲学のつめたさが好きだ。人生を変えたい人ではなく学習者を読者に想定しているから「わたし」に無理に入り込もうとすることは無い。常に論理的で冷静で、あなたが人生に使うなら勝手にどうぞ、というスタンスを取ってくる。 それなのに私が知りたかった答えを教えてくれるから生き方が変わる。たとえば他者について、善について、美について勉強してわたしはかなり人生が豊かになった。今までぼんやりとしか見えなかったそれらに近づいて少なくとも輪郭は掴むことができた。色や匂いや細かい部分はまだ知らないけれど、これから知ることができるのだと思うと楽しみだ。

確かに哲学自体にそうした好ましい要素はある。だがあなたにとっての宝石は哲学じゃなくて、芸術や音楽やスポーツや、はたまたほかの勉学や娯楽かもしれない。
そんな人間の多様さこそ、人間の営みが美しい理由である。無理に個性を探そうとする多様性ではなくて、ただそこで光っているだけの個性を掬う多様性。

こんなにも人生を楽しんでいる理由は、間違いなく哲学だけのおかげではない。とにかく色々な人と関わって人間性を深く知って大好きになって、そんな大好きな人達と毎日を過 ごせているからである。「私」とは私の周りの人を映す鏡である。

確固とした「私」なんてあるかないか確かめられないから、過度に私に期待することはもうやめた。一見ペシミストに見えるこの姿勢こそが、私のポジティブさを作り出している原動力だったりする。もっと呑気に人の波に漂っていればいい。ぎらぎらできるタイミングを見つけたらそこで初めて個性を出せばいい。100 点の人生なんて歩めないんだから、全体的に 60 点くらいとれていればモーマンタイで、しあわせなんだ。



ここまで話せば大体私の人生観は十分さらけ出せたかな。私はほかのひとよりちょっとポジティブな、人間と哲学が大好きな普通の女子大生である。
タイトルで銘打ったように、
これはただの自己陶酔である。


読者A:わたしはあなたみたいにポジティブになれないし、何にも面白くなかった。 好きになれるような人もそんなに何人も周りにいないし、あなたにとっての哲学みたいな夢中になれる対象を見つけられない。
読者B:わたしもあなたみたいにポジティブだけど、あなたの人生はやっぱりあまりにもありふれていてつまらない。文章も拙いし、これを書いて何がしたかったのかわからない。

さて、本作品に価値を付けるのなら、そしてタイトル通り自己陶酔でいいのだと開き直るのなら、こういう読者に言い返さなくてはならないだろう。こういう読者は途中で読むのをやめてしまったか、どこかで面白くなると思って期待して読んでいるが今もいやいや文字を追っている。後者であるあなたと(もしくは純粋に楽しんでくれているあなたと)、私は対話を試みたい。文章を書いて読んでもらうという一連の流れが相互行為である以上、これは立派なコミュニケーションだから。

まずAさん、あなたはそのあなたらしさをぜひ大事にしてほしい。あなたのポジティブでないところは、例えるならば私と色が違うだけの花。美しい多様性だから、きっとあなた自身が愛せなくても私が愛するし愛する周りの人が次第に現れるだろう。と、こうやってまたポジティブな言葉を頭に入れられるのはつらいのかもしれない。この文章は私が大好きなつめたい哲学と同じで、受け入れたかったら受け入れればいいし無視したかったら無視してほしい。私はそうやって人間がいろんな異なる反応をとる「多様性」こそを愛している。夢中になる対象もあったりなかったりしていいのだ、ないことさえもある人にとっては理想とする生き方となるのである。

例えば無意志を理想としたショーペンハウアーとか、俗世にしがみつくべきでないという仏教思想とか。

そしてBさん。私は確かに文章が上手じゃないしあなたの何かに訴えかけられるほど強い力は持っていなかったのだろう、残念なことに。それもあなたのオリジナルな価値観で素晴らしい。
だけど一度騙されたと思って、あなたも自己陶酔をしてみない?私みたいな未熟者でもできるのだから、あなたの人生はもっと美しいしいくらでも酔えるはずだ。そしてそんな美しいあなたの書いた文章は必然的に誰かを惹きつけるし私もそれを読みたいと強く思う。 あなたの人生はあなただけが主人公の、この世で最も解像度の高くてボリュームのあるドラマなのだから。

人間一人一人が異なった見方で世界を見ていて、異なった考えを持っていて、異なった感情で埋め尽くされているこの世界の壮大さを想うと泣きそうになるのだ。
「そんな世界は素晴らしい!」と叫びたくなるうれし泣きと、「でも私の人生でその中のいくつのドラマを観賞することができるのだろうか?そもそも断片的にしか見ることしかできないのに。」という悲し泣き。

そろそろこの文章の正体を明かそう。
これは論理的に書いた哲学レポートでも、あなたを楽しませようと思って書いた小説でもない。かといって完全に自分だけのためにある随想日記でもない。最初に言ったように、そんなたいそうな文学ではない。
これはあなたに文章を書いてほしくてお願いする、お手紙だ。もちろんこれはあなたに無理に入り込もうとすることのないつめたい哲学なのだから、あなたが書かないという選択肢もあっていいのだけれど、やっぱり私はあなたのことを知りたいから。

自己陶酔でもいい、
あなたにしか綴ることのできない文章を
もっと世界にみせて。
断片でいいから、輝きを魅せて。

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