見出し画像

恋に堕ちる、その瞬間


あなたを好きになった、二十歳の五月。

思えばわたしの人生はあの時から漸く始まった。
それまでのわたしは身体だけ同じ、
記憶が引き継がれるだけの別のひと。
いのちのことをよく灯火にたとえるが、
わたしという有機物がまさしく灯されて
閃光を発し始めたのはあの瞬間

────一歩。

哲学部に、はじめて踏み入る。
雨上がりと古本が混ざった甘くて不思議な匂い、つんと鼻をくすぐる。
とても綺麗とは言えない、箱同然の部室。
外はまだ肌寒かったのに、所狭しと詰まった学生のおかげで中は熱っぽい。
目を奪われたのは、部屋の一番奥。
視線が交わる。

あ、このひとの顔     すき。

「聞いたところによると、
あなたはカントに興味があるようですね」

そう、カント。イマヌエル・カント。倫理の授業で習った時からすきで。定言命法、極端かもしれないけどそれしかないだろうな、って思ったんです、啓蒙を実現するためには。つい早口になってしまう。このひとに好かれたい。
どうか興味をもって、わたしに。

貴方はわたしの前で一切笑顔を崩さなかった。
私もカントを勉強しているんですよ、気が合いますね、と話は進めつつ、手はわたしの分のお好み焼きを紙皿によそっている。

ソースの匂いの甘さとしらんだ煙で
くらくらするんだけれど、
もっとくらくらするのは、このひとの声と仕草。
低くて落ち着いていて、
それでいてゆっくりと上品。
お好み焼きをとろうと前かがみになったとき、
前髪がかかって目元が見えなくなるのが
どことなく色っぽい。
鋭くて切れ長な目が再度私を見据えるときでさえゆっくりで、それもまた艶っぽい。
白い肌が蛍光灯に透けて、
黒髪とのコントラストを際立たせるのも美しい。

文面に書くとなかなかな量の情報を、わたしは秒もかからず整理ができる。妄想だとか空想だとかをするのに、慣れているから。つまり、こんなことを考えると同時に、ご馳走を口にほお張るまでできる。夢見がちな少女は賢く生きる。

「あ、ねえ、脚にソースが」
「えっ」
前言撤回わたしのあほ。
「大変。これをどうぞ」

一瞬の出来事だった。友人に指摘されて驚いて誰かティッシュを、と助けを求めようとした瞬間、貴方がウェットティッシュを差し出したのは。

(なんてこと。このひと、性格まで素敵なの?)

ウェットティッシュでソースがするんと落ちる。
同時に恋にすとんと堕ちる。
悔しいほど、あまりにも容易に。

世間ではよくあることなのに、
ドラマチックに思えて仕方がなかった。
一目惚れも、他大生との恋愛も、
あまりにあふれる久しぶりの恋心も。

落ちる、というより、堕ちたの。
溺れてしまうくらい深く、底の見えない深海。
泡がゆらめいては消えて、ゆらめいては消えて。

だけどそれと同時に空を舞う。
世界が薔薇色にみえて、陽の光はより明るく、
体は軽く。世界の中心で、愛を叫びたくなる。
陳腐な表現しか出てこないほど、恋はわたしに染み込んできて、すっかり侵されてしまったの。

それからわたしのときめく言葉リストに「金曜日」が追加された。
きらきら、黄金に輝く金曜日は、貴方に会える。哲学を教えてもらいながら、ゴールデン・アワーがぼんやりと過ぎていく。憧れの時間。

恋心かもしれないとも思いながら、わたしはこの気持ちにその名前を付けたくなかった。これは密やかで繊細な憧れであって、恋だとかいう陳腐な現象に消化したくなかったのだ。

でも今思えば、そこまで大事にしている感情を、人々は「恋」と呼ぶのであった。

恋に堕ちる、その瞬間、
わたしはわたしにやっと出逢えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?