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愛するということ


雨降る喫茶店で、貴方と話し合った。
プリンの隣のアイス・クリームは解けて、ダージリンのお紅茶はひえてしまうほどに。しっかりと、時間をかけて。

議題はすなわち、
愛するとはどういうことか。
貴方とわたしの間にある「愛」とは何か。

元はと言えば、喫茶店に入る前行った書店にフロムが置いてあったせいだ。モネの画集を購入してさっさと過ぎればよかったものを、その本の純白さは目を引く。わたしたちは小さな哲学者だから、尚更。

話を降った私が先に仮説を発表することにした。
愛とはすなわち、ー執着ー ではないか。

「何故かっていうと、わたし、偶に想像するの。急に貴方が別れを切り出してきたら、絶対に諦められないだろうなって。泣きじゃくってでも手をほどかずに、おねがいだからわたしと一緒にいてよと引き下がらない。
貴方が幸せなのが一番だから、わたしと居て幸せでないのなら、しょうがないね、なんて、絶対に言えないから。
そう、でも、貴方なら、きっと言えてしまうだろうね、貴方の私に対する愛は、綺麗な愛だから。」

ずっとずっと、思っていたことを曝け出してしまった。
彼はいつもわたしの重さを包容してくれるから、心配はないのだけれど。それでも、彼と付き合った日したのとは別の告白をしてしまって、わたしは変にどきどきしていた。
恐る恐る貴方の方を見ると、優雅な仕草でカップをソーサーに置いて、冷静な様子で話を続けた。

「それでは貴方の抱いている愛だけが執着で、本物の愛だということ?
あなたの中のイマジナリー僕があなたに抱いているのは執着では無い、したがって、愛では無いということになるけれど」

「それは、なんだか……違うけれど。愛というのは、どこかしらどろどろしていて、綺麗じゃない部分があると思うから。きらきらとろとろしていて心地良いかと思いきや、どこかで奇妙なほど酷い熱を持っていて、心臓を締め付けてくるの。」
彼には言わなかったけれど、わたしはこの愛の二面性を海月みたいだと思っている。水槽から眺めているだけでいれば、その美麗さに酔いしれるだけなのに。月やゼリーを彷彿とさせる身体は、くるおしく魅力的で目を離せない。思わず、手を伸ばして触れてしまう。すぐさま毒を浸透させてくる。最終的には触手でこころもみも拘束されて、わたしはくるしくなってしまう。

「なるほど、普遍的な愛は、果たしてそうかな」
「ううん、今わたしが明らかにしたいのは、貴方とわたしの間にある愛とは何かなの。貴方がわたしを愛するのはどういうことかと、わたしが貴方を愛するのはどういうことかが、説明出来ればそれでいいの。」
隠された前提を突然出すなんて、アカデミアの議論だったら御法度だ。でもいいの、今は娯楽でしかないお喋りの時間だから。

「そうであるにしても、結局、あなたの想像する僕の抱く綺麗な愛とは一体何なのか」
「そうなの。うーん、じゃあこうしたらどうだろう、愛とは、執着と相手の幸せを想う気遣いという二側面を持つ概念だとしたら?」
「それならいいかもしれないが、執着について別の論点は付きまとう。例えば、僕がプリンに執着するのも、あなたが創作作品のキャラクターに執着するのも、全く同じ愛なのか?」

確かに。わたしのすき、たくさんある。窓に付いた露がゆらめきながら落ちて行くのとか。甘くないホイップクリームとか。プリンの横にいる果実が宝石のようであるのとか。
「度合い、が違うのかもしれない。愛の。」

「では、執着の度合いが愛に比例するのか?
比例するとするのならば、ストーカーや毒親が最上の愛であることになってしまうけれど」
彼はなんて聡明なソフィストなんだ。思考の穴を的確に突いてきて、悟性を刺激してくる。
「比例はしない。相手を尊重するのも愛の一側面だから、それがなくてはただの執着で愛にはならない」
だんだんと、愛の輪郭が露わになってゆく。わたしの意識は目の前のスイーツになく、もはや喫茶店の中にあらず、頭の回転に振り回されている。たぶん、理念に近づいているのだと思う。彼と議論しているとよく陥る感覚。

そういえばフロムも結局、愛するとは与えることだと言ってた。ナルシズムをやめてひとを尊重できる人だけが、真に他人を愛することのできる人なのだという。わたしは「愛する」ことがそんなに善いものだとは思わないけれど、善い側面も重要であるのは間違いない。

と、思うの。そう伝えると、貴方は狐みたいな目をぎらりとさせて、「ふうん?」と漏らした。

「その顔、なに。ていうか、そろそろ貴方の思う愛が何かも聞きたいな」
「いやあ、まさに今あなたが言ったように、愛するってそんなに善いことか?と思ってたから。

すなわち、僕にとって愛するとは、
ー自己満足ー だ。」

自己満足、自己陶酔、ナルシズム。
フロムが聴いたら顔を顰めそうな、隣人愛らしさをすこしももたない答えであった。

「僕があなたに優しくするのも、あなたがにこにこしてると僕が嬉しいから。親が子のために働くのも、『子のため』と言いながら結局、親自身の幸福のために働いている。
というか僕は、人間の全ての行為は最後自己満足に帰すと考えている。愛すること以外も。」

思わず微笑みが漏れてしまった。彼らしい。

「愛が善いものだとすれば、人は義務感を覚えてしまう。僕は義務で貴方を好きな訳じゃない。」
どきっとした。これは、告白だ。

そういえば前に、結婚の話をしたとき、彼は同じようなことを言っていた。僕は、愛を義務にしたくない。だから、制度的に愛さなければならないという結婚について反対だ。よく結婚しているけどなんら愛し合ってない夫婦が居るが、僕はあれになりたくない。
それをきいてわたしはひやりとして、「それはもしかして、いつかわたしと結婚してくれないの」と涙目できいた。そしたら、「そういう訳じゃなくて、愛を義務とか制度に変えてしまうってことに疑問を抱いているというだけ。結婚は、その時がきたらするよ」と言ってもらえて安心した記憶がある。

そんな出来事を思い出していると、貴方はそれにも関連する話を続けた。
「愛というのは、どこかしらちょっと不合理だからこそ美しいのだと思う。いつ別れてもいい僕たちが、あえて一緒にいるのが素敵じゃん」
「たしかに、そういうことってあるよね」
「そう、例えば僕もあなたも好きなドビュッシーの曲とか。 」

ドビュッシーときいて一番に思い浮かぶのは、「夢」だ。
あれは確かに、全体としてまとまりはあるし、メロディーのテイストも一貫しているのだけれど、音単位で見ると偶に不協和音が入るような「不合理さ」がある。でも、それが曲自体の幻想的な感じを際立たせていて、文字通り夢の中に漂っているような気分にさせてくれるのだ。

彼の表現はとても綺麗だと思ったし頷くところもあったが、わたしはつい、唸ってしまった。
「ん〜、そうかな」
「どうして?」
「そんなに美しくなきゃダメなの?やっぱり、愛はもっと不合理さが強い気がする。相手を独り占めしたい、もっとこっちを見て、と執着してしまう様は、醜い気もする。勿論、その醜さだけでは駄目なのだけれど」

相手を尊重する気持ちも両立しながらあるのが、愛だから。

「僕はそれには同調できない。だって、そこまで不合理さが強くなると、僕は美しくないと思ってしまうから。ピアノを乱暴に引き鳴らしても美しくないでしょ」

なるほど、彼の愛には前提として美しさがあるみたいだ。

貴方の愛、やっぱりわたしより倍綺麗なんだろうな。わたしの愛がこんなであるの知ったら、酷いと思われるだろうか。
でもやっぱりそうは思いたくなくて、彼に直接聞いてみてしまうのが、わたしの悪いところだ。

「ねえ。脱線するけど、きいてもいい」
「何」
「もしもわたしが別れたいって言ったら、貴方は引き止める?『あなたが幸せならいいよ』って、手を振ることが出来る?」

お紅茶はもう二人共尽きていて、陶器のお皿には薄くホイップクリームが残してあるだけであった。潮時であると、告げていた。だから、きいた。きけた。

「それは、その時になってみないと分からないけれど」
「言うと思った」
イエスかノーかで答えてほしいのに。
「あとは、まあやっぱり理由をきいて納得するかによると思うけど」
だから、イエスかノーかで答えて欲しいのに。

「まあでも、納得出来たら、素直に別れると思うよ」

一瞬、心臓が止まった。
ような、気がした。

イエスだった。なんだか、ちょっと泣きそう。分かっていたけれど。予想外でなくて安心したような、でもやっぱり残念なような、虚しい気持ちだった。振られたみたいだった。どこかで、貴方がわたしと同じくらいわたしに執着してくれるのを期待してた。僕にあなたは欠かせないし離せないよ、って、言って欲しかった!
でも、言わなかった。こんな気持ち、わたしは大人だから、すぐに屑箱に捨てられた。

「やっぱりそうなんだ〜」
と、気の抜けた声で安心が代わりに表出した。

そろそろ出ようか、と言った。ティータイムも議論もこれにて終幕。
愛なんて、わかりたくもなかった。
でも、愛すること自体はやっぱり美しいし、辞められないのだった。

お店を出て、ぼんわりとした梅雨の湿気がわたしの気持ちを代弁してくれてるみたいだった。だからか、なんだかわたしは逆に晴れやかになってきた。
「でもさあ、さっきの話なんだけど」
「ん?」
「多分、あなたが同じだったら、こんなに一緒になれなかっただろうね」
「どういうこと」

顔を上げた。梅田のビルは曇りでも煌々としていた。
「お互い執着し合う関係だったら、多分どっかで、どっちも辛くなる関係が続いてることに辟易して、終わらせてしまう。私たちきっと、違うからこそよかったよ」
言い聞かせてるだけだった。でも、言い終わる頃には、そんな気もしてきた。

そうだね、と彼は笑って、するんとわたしの指に指を絡ませてきた。
これからどうする?と自分で聞いておいて、デートはまだまだ続くということに気づいて嬉しくなった。思わず浮き足立って、先程までの憂鬱は去った。またね、憂鬱さん。また会うのだろうけれど。

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