吉屋信子『花物語』論―「スイートピー」からみる『花物語』の変遷―・後編
前回に引き続き、吉屋信子『花物語』について書いた卒論を掲載していく。こちらは後編だ。
前編はこちら。
こちらでも使用するので、改めて全52篇の分類表を載せておく。
それでは続きをどうぞ。
○三章 「変化」する物語
・第一節 教化する「名も無き花」から神を裏切る「スイートピー」へ
吉屋は幼い頃からキリスト教に接してきた。家のすぐ近くに教会があったこと、そこの牧師の姉妹と知り合ったことが切っ掛けだったという。吉屋にとって教会の〈日曜学校〉は〈小学校の教室とはまた違った一つの楽しい世界〉で、吉屋の教会通いは女学校時代も上京後も続いた(吉屋信子「幼き日のクリスマス」…『吉屋信子全集』12巻)。
『花物語』にも、「スイートピー」含め、キリスト教の関係する篇が幾つかある。設定としてのみ関係するものからストーリーと密接に関連するものまで様々だが、ここで興味深いのは「名も無き花」だ。
先述した通り、『花物語』は当初、この7篇目「名も無き花」で終わる予定だった。病床にある少女が、避暑に来ていた姉妹の賛美歌を聞いたことから姉妹と交流を持ち、やがて信じていなかった神を信じるようになる、という、簡単に言えば一人の少女が教化される話だ。
一方、同じく最終回の予定で書かれた「スイートピー」では、真弓は牧師の娘ながら全く宗教に熱心でなく、信心深い佐伯も綾子を愛するが為に信仰に背く。
共に最終回の予定で書かれた「名も無き花」と「スイートピー」の違いはそのまま、7篇で終了するはずだった『花物語』と10年に亘って書き続けられた『花物語』の違いに直結するだろう。
無論、連載期間中に吉屋が信仰を捨てたということではない。「スイートピー」の直前には、美しからぬ容姿の少女が、それゆえ誰にも愛されないことを憎んで家に火を放とうとしたことを修道院で懺悔し、そこの尼となる、という筋の「心の花」がある。傷ついた少女を救済する力を、吉屋は神や信仰といったものに認めている。
注目すべきは、終盤の、綾子の死を知った二人が寄り添って涙を流すシーンである。ここで二人を賛美歌が包むのは、二章で言った通り、二人が許されたことの表れだろうが、では具体的に何者が二人を許しているのかというと、それは恐らく「神」だ。ミッションスクールという場で、真弓は佐伯を差し置いて綾子と関係を結んだことを(通じ合ったその時から)悔いており、佐伯は綾子を想うゆえ信仰に背いた。そうした二人の愛ゆえの罪を「神」は許し、また二人にそうさせた「愛」そのものをも認め、許しているようである。
『花物語』初期7篇は、〈「涙」による結びつき〉に貫かれている(毛利優花 前掲論 136頁)が、涙とは即ち無色透明であり、吉屋がまだ「熱心な投書家」と「小説家」の合間をたゆたっていた頃の産物と言えよう。しかし吉屋に作家としての意識や覚悟が芽生え定着していくにつれ、『花物語』は彩色されていき、「愛」の物語となっていく。
してみると、「神」とは最も強力な無色の題材である。それは初期の吉屋にとっては、それ単体で物語の締め括りとするのに相応しいものであり、「作家・吉屋」にとっては物語の中心に据えた色を引き立てるための彩りの一つだったのではないだろうか。
(ここ自分で読み返しても何言ってるか全然分からんかった、察してくれ)
・第二節 「偶然の出会い」から「必然の出会い」へ
「名も無き花」と「スイートピー」を比較しうるもう一つの違いが「偶然の出会い」と「必然の出会い」だ。
上に載せた表を見返してほしいのだが、関係性については概ね「不思議な出会い」「一時の交流」「母子」「姉妹」「同級生」「先輩後輩」「生徒教師」の7つに分類できる。
このうち「不思議な出会い」「一時の交流」では偶然の出会いが物語となり、それ以外では血縁関係や生活空間の共有により出会うべくして出会う二人ないし三人の物語となる。「必然の出会い」を必然たらしめるものは舞台設定であり、「出会い」の変化とは即ち舞台の変化である。
中でも〈「女学校もの」「寄宿舎もの」〉は、〈俗に「花物語」の典型と言われ〉る(横川寿美子「吉屋信子「花物語」の変容家庭をさぐる―少女たちの共同体をめぐって―」8頁)。そこで女学校または寄宿舎を主な舞台とする篇を「学校もの」と纏めると、実はその数は全体の半分ほどだが、連載が進むにつれて増えていく傾向にあることが分かる。(「玖瑰の花」など、主人公が学生などでも物語の舞台が学校や寄宿舎ではないという篇は、「学校もの」から省いた)
安藤恭子は、『花物語』初期7編について〈明治期に形成されていた既成の〈少女〉像の反復である〉とし、8篇目以降頻出する女学校や寄宿舎は、〈語り合う場の設定を失った〉物語が新たに必要とした〈〈少女〉たちを結びつけるもの〉だとする(「吉屋信子『花物語』における境界規定――〈少女〉の主体化への道程――」31頁)。
すると、連載が進むにつれて初期七篇のような「偶然の出会い」の物語が減少し、「必然の出会い」の物語へシフトしていったのも当然といえる。なぜなら吉屋は、ただ同情の涙を流すばかりの〈既成の〈少女〉像〉を乗り越え、「自我」を持った存在としての少女を(そしてその実践方法としての同性同士の関係を)描かんとするようになっていくからだ。ならば主人公の立つ場所は、読者にとって分かりやすく、登場人物たちが地に足を付けていられる場所である必要があろう。
「偶然の出会い」から「必然の出会い」へシフトしていったことに続き、「必然の出会い」に分類される篇の中での変化も見ていく。
「少女倶楽部」掲載の「スイートピー」第二回(最終回)を見ると、物語は〈このうら若き二人の學業の成就を天に在りて美しき子のみ靈はあはれ守るらん、いかに人々。〉という一文で終わるが、単行本ではこの〈いかに人々〉という部分が削除されている。この文言は、8篇目「鬱金桜」を締め括る一言〈いかに若き君達。〉に通ずる。そして「鬱金桜」は、初期7篇を除くと「学校もの」の最初の一篇であり、「スイートピー」は「学校もの」の最後の一篇でもある。
『花物語』全篇を見ると、たとえば最後期の「睡蓮」も〈いかに少女の君達……思い給うや。〉と読者に問いかける一文で終わるが、「学校もの」に絞れば、こうした締め方をしているのは「鬱金桜」が最初で最後だ。
先述の通り、女学校や寄宿舎という設定は、物語内の少女たち、そして登場する少女たちと読者の少女たちを結びつけるものである。読者にとって女学校や寄宿舎という舞台設定の物語はより身近に感じられたはずで、わざわざ問いかけるまでもなかっただろう。
一方「睡蓮」は画家に学ぶ二人の相弟子の話であり、〈左の掌、薬指と小指が、離れずにぴったりとくっつい〉ている仁代が、親しかった相弟子の寛子にそれを〈不具〉と大勢の前で言われるという裏切りを受け、展覧会出品の栄誉を背に絵筆を捨てて帰郷する、という割と辛い話だ。女学校や寄宿舎でのロマンティックな物語に比べれば、読者は身近に感じづらかったに違いなく、それゆえ「睡蓮」の〈いかに少女の君達……思い給うや。〉は削除されなかったと考えられる。『花物語』は基本的に、どこまでも読者たる少女たちに寄り添うことを意識していたのだから。
してみると、その設定だけで十分に読者と寄り添っている「学校もの」でありながら呼びかける、「鬱金桜」の〈いかに若き君達。〉という一文は、「新しい『花物語』」を書くことになった吉屋の手探りの結果なのかもしれないが、その迷いや戸惑いは連載を続けていく中で払拭されていったのだろう。そして「スイートピー」初出での〈いかに人々。〉という一言は、迷いではなく、吉屋の感情が筆を走らせすぎたのだと思うが、それはまとめで触れる。
○四章 「深化」する物語
・第一節 「黄薔薇」の二人はなぜ破綻したのか
高橋重美は『花物語』の美文の役割について、〈美文描写が喚起する感傷の共有によって、非行為=非時間的な少女の〈今〉を拡大構成する〉(前掲論 79頁)と述べるが、確かに『花物語』は今現在のことを見つめる物語が多くを占める。
しかしその中で、「黄薔薇」は、主要人物が明確に未来をまなざした特異な篇だ。まずこの「黄薔薇」について取り上げたい。
この篇は、明確に同性愛の物語であることが明示されるという点でも特異だ。『花物語』の中でも、二人の仲が同性愛であると明確に記された篇は、他には〈(友情)の垣根をいつか越えて来た〉とする「日陰の花」が挙げられる程度だが、ストーリーらしいストーリーのない「日陰の花」に比べ、「黄薔薇」は確かなストーリーの元に同性愛の同性愛たるがゆえの悲劇を描いている。
(「少女画報」巻末には、主に掲載作品への賛美が並ぶ読者コーナー「金のお部屋」がある。が、「黄薔薇」の結末については〈ほんとうに寂しい悲しい終りでした、少女なるが故にはかない誓ひでしたのね〉〈黄バラもとうとうおしまひになりましたのね。葛城先生の行衛はわからないんですのね〉と、切なげであったり曖昧だったりと少々異質なものもあるばかりか、〈黄薔薇私がつかりしちやつたわ、吉屋先生うらんでよ〉というものまである。当時の読者にも「黄薔薇」の結末は驚きだったようだ)
「黄薔薇」では、親戚から持ち込まれる結婚話を避けて女学校の教師となった葛城が、東京を離れる際汽車で見かけた少女礼子と学校で再会し、やがて同性愛関係に発展する。注目すべきは、この葛城と礼子が思いを通じ合わせた後、二人の間に、将来についての約束が結ばれることだ。
夏休みが来た時、葛城さんは教え子の礼子の避暑地の興津へ、礼子の両親の招待するままに、かつは礼子に離れがたくて、その地の浦上家の別荘へ来てしばしの日を送ったのであった。その間にふたりの手にはある切ない誓いが交された。それは、礼子が学校を来春出ると、葛城さんに伴なわれて上京する、そして葛城さんの母校の麹町の塾へ入学する、そして、そこを卒業したら、二人相連れてアメリカのカレッジに学ぶというその将来に誓いを立てた。ふたありの純な心臓をその上に懸けて!
だが、ここで両親と知り合ったことが仇となる。礼子の卒業間際、彼女に結婚の話があるものの本人が断固拒絶するので葛城の方から説得してほしい、と母親から頼まれてしまうのだ。
それが自分を想うがゆえの拒絶だと葛城にははっきりと了解できる。そして葛城は、〈結婚をもって唯一の女性の最後の冠とのみ思い詰めている親――社会の人心〉に対して、自分と礼子の〈世常の結婚の型をとって生活できぬ〉関係が〈露骨に表白しそれを楯に取るのには、あまりに薄弱な理由〉だと思い詰め、結局礼子を頼まれた通り説得する。礼子は結婚し、葛城は留学として渡米後消息を絶ち、タイピストとして孤独な人生を送っていく。
同性愛関係となった二人が清見潟で語り合うシーンで、古代ギリシャの詩人サッフォーが話題に上る。
サッフォーを知らないという礼子に葛城は、〈この人の世にもたぐいなく美しくも清らかな熱情が大好き!〉として、高山樗牛「わがそでの記」内の〈サッフォを讃え惜しんだ一節〉を諳んじて聞かせる形でサッフォーを紹介する。が、その当時サッフォーの詩は〈一聯わずかに三行ばかりの訳詩が上田博士のお筆で日本には残されてあるばかり〉だった。つまり葛城が好み共感を覚えたのは、サッフォーの詩の内容ではなく、高山樗牛が記したサッフォーの生き様そのものだと考えられる。
だがそうなると、葛城が礼子に対してサッフォーの生涯を説明する台詞に、違和感がある。
「礼子さん、このサッフォはね、美しい同性の共に熱情を捧げて、裏切られた人なのです、レスボス島のエレリスの生れ故郷から首都のミチレネの学窓にありし日も――そして最後に可憐な女隷として売られて来て、自分の侍女としたメリッタを深くも愛したのですけれど――その少女メリッタにも裏切られて――もはや熱情を空しく捧ぐるまでに破れし悲しい胸を懐いてリュカディアの岩頭から青い海の中へ身をおどらして波間に消えたのです――悲しき女流詩人、サッフォ――私は、私は、好きですの――」
沓掛良彦『サッフォー 詩と生涯』によれば、サッフォーの生涯に関しては二つの〈伝説〉が流布しているという。同性愛者だったという伝説と、美青年ファオンへ失恋し投身自殺したという伝説だ。
このうち、前者についてはその可能性が十分考えられるが、後者は全くの創作だと沓掛は述べる。「ファオン」という名前が太陽神アポロンの息子の名と同じ意味なので、神々の恋愛についての詩が彼女自身のことを歌ったものだと誤読されたのでは、と沓掛は仮説を唱える。また自らの老いについて諦観を籠めて歌う詩があるので、自殺したという伝説は事実とも反しているという。
清見潟で葛城が諳んじた〈サッフォを讃え惜しんだ一節〉は、樗牛がグリルパルツァーの戯曲「Sappho」を読んだことで書かれたものだ。この戯曲は、サッフォーがファオンという青年を愛するものの、ファオンの方はサッフォーの侍女メリッタに心奪われ、嫉妬や苦悩の果てにサッフォーは「神の元へ帰る」として海に身を投げる、という内容(水甕社「水甕」第二巻第一号(1915・1)~五号に掲載の鈴木穂華による訳を参照)。これに限らずサッフォーの投身自殺を描く創作物だと、サッフォーは青年ファオンに失恋するものと描かれる。
ところが先に引用した葛城の台詞だと、サッフォーは愛した侍女メリッタに裏切られ投身した、と読め、いわば同性愛の伝説と投身自殺の伝説が混ぜ合わされた内容となっている。「わがそでの記」にも〈「ふあおん」はかれを欺き、「みれつた」はかれをうらぎりぬ。〉とファオンの存在ははっきり記されているし、葛城もその部分を諳んじているにも拘わらず、直後にわざわざファオンの存在を排除した形でサッフォーについて語り直しているのだ。
この語り直しは、自分をサッフォーに、礼子をミレッタに見立てた上で、ファオンという異性を排除して同性愛の関係であることを再確認し、「あなたはミレッタのように私を裏切らないで」と呼びかけた、ということに他ならないだろう。それはまさに、「少女画報」掲載時に付けられていた連載第三回の副題、〈サッフォの誓〉だ。しかしこの誓いは、葛城の方から破られることとなる。
無論この悲劇的な展開は、吉屋自身が同性愛に対して諦観を懐いていたなどということの表れでもなく、また大森郁之助が『考証少女伝説――小説の中の愛し合う乙女たち』で言うような〈相手の女生徒よ(、)り(、)も(、)自(、)分(、)に(、)浴びせられよう非難を恐れて相(、)手(、)の(、)前途を閉ざしてしまった〉68頁 傍点は原文ママ)という物語を書かんとしたわけでもないだろう。この葛城の選択は、基本的に良妻賢母主義を旨とした少女小説という場において可能な限りの痛烈さで、〈結婚をもって唯一の女性の最後の冠とのみ思い詰めている親――社会の人心〉への批判として描かれた、と読むのが妥当だ。
葛城は、裏切りの罪を背負って異国の地でひっそりと生き続ける。〈サッフォの誓〉を自ら破った以上、サッフォーのように自殺はできない。まして葛城は元々、させられそうになった結婚を回避すべく、都会を離れた場所で教職に就くと決めたのだから、自分が避けたものを礼子には負わせたということで、その罪はいっそう重い。
そして、『花物語』には〈「罪」の意識を持たされ、「死」に至る運命を担わされて初めて少女たちは相手との別離を免れ得る〉という不文律があると横川寿美子は述べる(前掲論 9頁)。「黄薔薇」の二人の破綻は、〈「死」に至る運命〉の対極たる将来の約束をしてしまったがために、この不文律に抵触し、もたらされた結末だ。そしてまた、別れを受け入れてしまった葛城はこの不文律によって死ぬことを許されなくなりもしたのだ。
・第二節 「スイートピー」の二人は何を手に入れたのか
横川の言う〈不文律〉は、〈相愛の二人が別離せずに終わる話〉(前掲論 9頁)である「燃ゆる花」「梨の花」「曼珠沙華」及び「日陰の花」についての考察だが、上の表で示した通り、『花物語』における別離には身体的別離と精神的別離がある。無論「燃ゆる花」「梨の花」「曼珠沙華」も、死によって絆や愛を永遠とした(感傷的で無力な「言い換え」ではあるが……)、つまり精神的別離を免れてみせた物語である。
また上述の通り、二人が死別する篇だと必ずその死が遺された側に何かを残す。これもまた、精神的には繋がり続けていくことを示しているだろう。そして「スイートピー」では、綾子の死は二人にそれぞれの志す道へ進む決意を与えている、と読めるが、この決意について改めて考える。
「スイートピー」が、熱狂的かつ一過性の〈病〉と、それとは一線を画す感情で綾子を想った二人を描いていることは先述の通り。では、自分自身同性愛者として生きた吉屋は、この〈病〉をどのように見、何故描いたのか。
個人雑誌「黒薔薇」の第2巻で、吉屋は菊池寛の戯曲「戀愛病患者」を批判した。この戯曲は、「恋愛は一つの病気だ」として、娘の結婚を、周囲の説得にも応じずひたすら拒絶するアレな父親の話である。吉屋はこれを批判するのに、与謝野晶子の文章を引用し自らの言葉を加えた。(以下引用文中、括弧内が吉屋の加えた文)
廣い世間には中等教育を受けた若い娘達の中にも内外の事情から無教育な階級の娘達と同じ様な徑路を踏んで個人としての自尊を鈍らし異性に對する好奇心と淺薄な同情心とから、つい浮々と若い男の一時的の愛の誘惑若くは一時的の性的慾望の還元にほだされて身を持ち崩す者が稀にある、その事實を見て例の通俗的識者達は(譬へば菊池氏の一つの戯曲の示せる如く、單に恋愛は惡しき流行病の一種なりと片附ける傾ありかくの如く)戀愛でないものを戀愛であると誤認する場合が多い、(そして眞實の正しい戀愛をさへ、それ同様に思つて嘲笑して痛快がる衆愚のさても多さよ)
ここで重要なのは、吉屋が「流行病の如き一時の恋愛」と「真実の正しい恋愛」の二種類があると言っていることだ。この文章自体は男女の恋愛について語っているが、吉屋は同性同士の関係の中にもこの二種類を見てとったのではないか。そして同性同士における「流行病の如き一時の恋愛」とは、まさしく〈病〉である。
二章でも述べたが、「スイートピー」は〈病〉を真弓や佐伯の感情との比較対称とし、批判している内容でもある。綾子が病気であると知った〈ピー党の面々〉の〈『病気なんですって』/『まあ、重いの?』/『肺病かも知れないわ』/『そうね、綺麗な人だから――』/『血を吐くのかしら雪より真白きベッドの上に』/『ロマンチックだわ』〉という会話も、〈病〉にかかった少女たちの批判的な描写だろう。いやロマンチックだわはさすがにヤバいだろお前。
では逆に、吉屋は「真実の正しい恋愛」をどのように肯定したか。
自身の寄宿舎時代の体験とレズビアニズムを告白したほとんど私小説に近いという長編『屋根裏の二処女』は、「自我」というキーワードに貫かれた内容である。望まぬ結婚をさせられた男爵夫人が〈境遇のすべてを振り捨てて、自分の意志を貫〉くために自殺する、という悲劇を遠景とし、〈新しき運命を求め〉〈行くべき路を探〉すべく共に寮を去る二人の女性、章子と秋津を描く。
寮を追い出される章子に秋津もついていくと決まった時、秋津は章子にこう言う。
「滝本さん、ふたりは強い女になりましょう、出てゆけというならこの屋根裏を今日にも明日にも出ましょう、ふたりの行く手はどこにでもあります――ね、ともあれ、ふたりでここまで漕ぎつけたのです。これからふたりはここを出発点にして強く生きてゆきましょう、世の掟にはずれようと人の道に逆こうと、それがなんです、ふたりの生き方はふたりにのみ与えられた人生の行路です、ふたりの踏んでゆくべき路があるに相違ありません、ふたりの運命を二人で求めましょう、ふたりのゆく路をふたりで探しましょう、――これから――」
この章子と秋津が結ぶ関係は「真実の正しい恋愛」に他ならず、その「正しさ」は「自我」というキーワードと強く結びついている。
『花物語』に目を戻すと、吉屋の批判的な視線はあくまで〈病〉に向き、同時代の女学生に見られたいわゆる「エス」関係には向いていない。「エス」は〈家族・男性・強制的異性愛の対抗文化〉(今田絵里香『「少女」の社会史』212頁)だと考えられ、少なくとも、少し姿を見せなくなっただけで霧消してしまうような感情とは異なるからだ。唯一「エス」という語がはっきり登場する「龍胆の花」ではこう述べられる。
級(クラス)の皆様、おたがいに学校を出てもお手紙だけはきっとね、けれどこれだけたくさんの中(うち)でしょう、みんなに行き渡るように手紙を書くのは困難な事でしょう、もちろん特製のS同志なら日文矢文でしょうけれどねえ、
「スイートピー」では、舎監排斥運動ののち真弓が綾子に宛てた手紙の中で、〈もう、あなたを今宵は、呼びなれた、いとしき私の妹よと呼びかける事は許されないのです〉と書いていて、真弓と綾子の関係性も「エス」であることが読み取れる。
女学生時代に誰かとエス関係を結ぶのは、必ずしもその個人が同性愛者や両性愛者であることを示してはいなかっただろう。吉屋はエスという一種の制度を、同性愛者でない女性たちにも可能な「反抗」の手段として支持していたのではないか。それがしばしば嫁がされ、産まされ、家に閉じ込められるという運命を背負わされる少女たちに、「自我」をもたらすことを信じて。
『屋根裏の二処女』で伴夫人の死は、〈晴々とおおらかに快く夫人は「自我」の王冠を自らの頭に戴いて微笑みつつ逝く〉と語られるが、この「自我」というキーワードは、遅くとも連載中期から『花物語』にも現れ始めていたと言っていいだろう。「燃ゆる花」のます、「曼珠沙華」のみやこと幸の死などは、まさに「自我」を貫き通したゆえの死であり、逆に社会の糾弾を恐れて「自我」を挫いた「黄薔薇」の葛城は死という救済を許されない。
そして一方が病死する篇では、死によって「自我」を貫き通すという展開ではなく、少女の死が他の少女たちの「自我」を確立させる、という話になる。死によって「自我」を完遂する物語と、遺された少女たちが「自我」を持ってこれからを生きていくであろうと示唆される物語、どちらが明るい力に満ちているかは言うまでもない。
二章で述べた通り、真弓と佐伯の選ぶ進路は長編『海の極みまで』の結末に呼応する。『海の極みまで』は、哲学に傾倒し厭世観に囚われる青年・美濃部亘と、美濃部家と家族ぐるみの付き合いである鳴尾家で家庭教師をする安西環を中心とした群像劇だ。
物語の結末で亘は〈身體と心の全部を投げ出して、有らんかぎりの力で善く正しいと思ふ生活の爲に働く心算です〉として労働者の道に、そして環は〈淸純なる一人の霊魂はよく千人の罪の償ひをなす〉として信仰の道へ進む。
しかし、『海の極みまで』と『花物語』では、労働と信仰という二つの道が持つ意味合いは全く異なる。『花物語』でこの二つの道を辿るのは、同じ少女を愛し同じ少女と死別した二人の少女である。ならば専門学校と神学校という進路は、男性に頼らず生きていく術を得る道であり、更に言えば綾子との思い出が二人に生じさせた「自我」を、異性愛や結婚や良妻賢母などという理念、社会圧力によって潰さないための選択である。
『海の極みまで』の環は、物語中盤では一旦〈女性救済の事業〉に人生を捧げるという決意をするのだが、最後は〈カトリツクの背景に入っ〉ていってしまう。最終的に環=女性が信仰の道に進み、亘=男性が労働の道に進むという「通俗的」な構図となっているばかりでなく、環が〈女性救済の事業〉を成さずに信仰の道へ進むという流れから、信仰の道を労働の道より一歩劣る逃げ道のように語っているとも思われかねない。だが「スイートピー」では、その点が解決されている。
修道院に入るつもりだと言う環に亘は〈たゞ仄暗き寺院の中の祈りに依つてのみ、此の苦しく寂しい人生がどうなるものでもないと思ひます〉と語りかけ、環は〈信じる者と信ぜざる者との間の深い〱溝でございますのね〉と答えるが、この〈信じる者と信ぜざる者〉という違いは、「スイートピー」の真弓と佐伯においては最初から示されていて揺らがない。専門学校へ進む真弓は元々信仰に熱心でなく、神学校へ進む佐伯は元々信心深いため、この二つの道は対等に描かれている。
真弓と佐伯の進路は、『海の極みまで』の結末の語り直しであり、より進化しているといえる。
即ち「スイートピー」の物語の主眼は、綾子の死という悲劇ではなく、それを乗り越えて進んでいく二人の後ろ姿にある。そしてそれは、二人が綾子を愛したことから始まっているのだ。
これもまた少女小説という領域において可能な限り、と付け加えねばならないだろうが、「スイートピー」は少女が少女を愛することを肯定してみせた物語であると言えるのではないだろうか。もちろんそれは〈惡しき流行病〉の如きそれではなく、〈眞實の正しい戀愛〉においてである。
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