見出し画像

2021/01/17

自分には「幸せになることはまやかしを見ることに繋がる」という固い信念のような考えがあった。正確には今もある。

このような考えを持つに至った経緯として、「幸せを謳歌できる人間は他者の苦しみに無理解であるばかりか、無意識のうちに他人を苦しめかねない」という人間関係上の学びがあった。
この学びを経て、自分は絶対に「彼ら」のような不躾な人間にはなってやるものかと肚の底から真剣に思ったのである。

その結果、今自分は(この記事を執筆できるくらいの時間的・経済的余裕などがあるとしても)幸せではない。社会への不満はいくらでも口にできるし、身の回りでは多種多様な「苦痛」が日々自分を付け狙っているとも言える。

さて、こちらのサイト上にある漫画を見てほしい。これはうつ病を患った主人公が、様々なアプローチ、価値観の変遷、気づきを通してうつ病と向き合うという内容のフィクションだ。最近巷で話題になっている。

ここからは漫画の内容に触れるので、ネタバレが嫌な人はまず記事を読んでからスクロールしてほしい。




主人公は、様々な心理学的アプローチを体験する中で、アドラー心理学と出会う。強烈な言葉や、直感的には受け入れがたい理論によって最初は反感を抱くが、その後時間をかけて徐々に本質を理解していく。

自分が印象に残ったのは、「『傷だらけで座り込む幼い自分(本心)』を見て『誰がこんなことを』と思ったら、なんと傷つけていたのは今の自分自身だったと判明する」箇所だ。

俺が自分で自分を虐待してるんだ。

この一文を読んで、私は凄く危機感というか、精神がグラグラと音を立てて瓦解せんとする感覚を覚えたのだ。

私が「まやかし」を見ないようにするためという理由で「私が幸せになることを禁止している」としたら、それってやっぱりある種の虐待ではないか、と考えてしまった。

実際、自己虐待をしている自覚はあった。

「本当は幸せになりたいが、幸せになるとまやかしを見てしまい他人に苦痛を与えてしまうので、自分は幸せになりたくない。それで苦しかったとしても、他人に苦痛を浴びせる愚かな人間にならなくて済むのだから、そのほうが幾分ましである」という考えが私の脳内で賛成多数を獲得していた。

しかし例の漫画を読んだ今、「自分を大切にしながらまやかしを見ずに済む方法を見つけていくべきではないか」という考えが新たに浮上したのだ。すなわち、「自分が幸せになることを許可し、幸せになったうえでなお他者や他の生命の苦しみや悲しみに敏感でいられる」状態を目指すということだ。

もしかしてなれるんじゃないか、もしなれるなら、一刻も早くそうなりたい、と思った。

これを執筆している今、自分を変化させようか、変化せずとどまるか迷っている。今判断するには「幸せになったら他者の苦しみに気づかなくなり、さらには苦しみを与えるようになる」という学びが正しいのかについて再度考え直す必要があるからだ。

でも、ここで変われば、今まで自分の精神に深く根をはっていたものが消えるような気がする。

長年放置してきた内面の問題に、取り組むべき時が来たのかもしれない。

私は自分が納得できる人生を構築していけるのか、今は判らないが、やれるだけの努力はしてみるつもりだ。


それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?