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コットンと音楽の機縁

石炭のかけらと煙突の煙、ここが私のふるさと。            どこの街にもある騒がしさは、うんざりするけれど、          街のみんなはそれでも幸せになりたくて生きている。

旅から帰ると工場の高い煙突が、                   真っ先に「お帰り!」とほほ笑んでくれる。             (マンチェスターとリバプールの歌詞の一部を意訳)

1968年、ピンキーとフェラスが世界的な大ヒットをさせた
ポップスの曲です。

 イギリスの地図を見ると中程のくびれた西側の海岸にリバプールがあって、それから東へ50キロほど内陸に入ったところにマンチェスターがあります。

マンチェスターは、18世紀の産業革命の中心地で、一大コットン工業の  大都市になりました。1830年には、リバプールとの間に鉄道が敷かれ、
大量のコットン製品がこのリバプールの貿易港から世界中に運ばれてゆきました。

リバプールを繁栄させたものは塩、タバコ、砂糖にラム酒そして綿花に
綿織物、そしてアフリカの労働力、奴隷たちでした。
さすがに後ろめたさがあったのでしょうか、奴隷は「黒い貨物」、綿花や 砂糖は「白い貨物」とわざわざ暈かした言い方にしていました。

アフリカの西海岸に向けて、この港を出た貨物船には、綿織物、毛織物、 銅製の食器など日用品が積まれていました。

アフリカに着くとそれらを何倍ものもうけで売って、奴隷やガラスの装身具などを買い込み、それらを積んで新大陸の南北アメリカに向かいました。 アメリカに着くと奴隷と積荷を現金に換えて今度は、サトウキビ、タバコの葉、そして綿花を満載して、リバプールに戻って行きました。

これを「三角貿易」と呼びました。

 ビートルズのメンバーのポール・マッカ―トニーの父親のジムさんは、綿花のセールスマンでこの街でさぞかし忙しく働いていたことでしょう。   お爺さんの縁繋がりでしょうか、孫娘はファッションブランド     「ステラ・マッカートニー」でやっぱりコットンの製品を扱っています。

綿花取引所の様子

 アメリカ南部の綿産地から大量のコットンがミシシッピー川を下り、
ニューオリンズの港から出荷されてゆきました。

綿花栽培の中心地メンフィスからニューオリンズにかけて、そこで働く  アフリカの人々は、ゴスペル、ブルース、リズム&ブルース、      デキシーランドジャズへと発展してゆきました。

メンフィスは、いわずと知れた伝説のロックンローラー、        エルビス・プレスリーの生まれ故郷です。               プレスリーは、綿花畑で働く母親の背中で育ちました。

もう一つの巨星、ソウルミュージックのジェームズ・ブラウンは、綿花畑で働き「綿摘みはつらいの一言に尽きる」と回想していたそうです。

1920年代、禁酒法を逆手にとって大もうけしたギャング、        オウニー・マトゥンはニューヨークのハーレム地区に白人向けの高級ナイトクラブをオープンさせました。デュークエリントン、ルイアームストロングなど一流のジャズ演奏家が大挙して出演し、さながらジャズの「メッカ」となりました。出演者はすべて黒人で、そのクラブの名前はなんと    「コットンクラブ」でした。

コットンと黒人奴隷の存在は、このように切っても切れないつながりを持っていました。

コットンをめぐる音楽は、支配された極貧の人々の苦境を慰める鎮静剤の
役割をしていたようです。

 

 

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