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「努力」を自分の価値観で再定義すれば、本当に楽になれるのか ~ウサギとカメの関係性~

ココトモハウス オンラインで話したこと

私がとてもお世話になっている居場所がある。
その居場所は東京都目黒区にある、ココトモハウスである。

ココトモハウス ホームページ

https://kokotomohouse.com/

noteを始めたきっかけも、ここでできたご友人から誘って頂いたことだった。

先日、ココトモハウスの管理人であるジョジョさん、ココトモハウスに参加している方々と、「努力」にまつわる「生きづらさ」について考えていることを題材にした会話をした。
その会話から、考えたことについて記載する。

補足
現在、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、ココトモハウスはオンラインで集まりを開催しています。
深い話もできる楽しい場所です。何かに勧誘されることはあり得ません。(勧誘は規則で禁止されています。)
興味がある方は、ぜひ参加してみてください。


管理人のジョジョさんが「努力」について考えられた内容は、以下のURLの記事にまとめられている。

「頑張れ」という言葉に苦しんでいる人達へ

https://kokotomohouse.com/57830/


「努力」を強制されているような「生きづらさ」について

「努力」を強制されているような「生きづらさ」については、私も自分なりに考えたことがあった。

私も10代の頃に、その「生きづらさ」をなくしたいと思っていた。

当時の私が持っていた価値観は、以下2つに集約できる。

何を「努力」の対象とするのか。それは自分で決められる。
例えば、好きなことに対して努力をするのならば、生きやすくなるかもしれない。

自分の中で、何を「努力したことの成果」と定義するのか。それも自分で決められる。
例えば、努力をした成果を自分で心から認められるのならば、人が馬鹿にしてきても気にならなくなるかもしれない。


しかし、私の気持ちは、完全には楽にならなかった。

それは(私も含む)人間が、社会的な生き物だからだったと考えている。
自分が自分の努力を認めたとしても、他者からは否定されていたとしたら、それは本当に幸せなのだろうか。

人間は社会的な生き物である。だから、人から認められたいと願う。
そして、人から認められることが幸せに繋がることは、多くの人が同意するとも思う。
そして、人から認められないことを悲しく感じること、それもまた多くの人が同意するとも思う。

だから、この疑問が消えなかった。
自分で自分の努力を認めたとしても、他者からはその努力を認められていないとしたら、それは本当に幸せなのだろうか。


寓話「ウサギとカメ」

今回、この努力の話に関連して、寓話「ウサギとカメ」の内容が、オンラインでも話されていた。また、引用させて頂いた記事の中でも取り上げられていた。

寓話「ウサギとカメ」の内容は、皆様もご存じのとおりである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%83%A1


また、「ウサギとカメ」の解釈は、ここ数年話題になっているようである。
検索サイトで記事を探すと、解釈の記事を大量に発見することができる。


本論

先に端的に結論を記載する。私は、以下のとおりに考えている。

「努力したことの成果」について、社会が多様性を持たない限り、人々の「努力」にまつわる苦しみも解決しない。

①社会の価値観

社会は「努力」の評価軸に多様性がない(もしくは多様性が小さい)。
なので、社会の「努力」の評価軸に合わせて生きざるを得ない傾向が強い。

例えば、具体的な評価軸の典型例としては、より自由市場経済で評価されるほうがよいという評価軸があるだろう。

そのために、(社会的な規範を獲得する)競争から降りることができず、生きづらさが解消しない人が多い。


②個人の感じ方

上記①に記載した「生きづらさ」を解決するために、自分なりの評価軸で自分を認めてやればいいと考える個人が一定数いる。

いわば、評価軸を再定義した個人である。

私が10代のときに考えた価値観も、これに類するものである。


③評価軸を再定義した個人が、その後どう感じるのか

人間は社会的な生き物である。自己評価には他者との相対評価を意識せざるを得ない。
自分の評価軸を持つだけでは、他者から認められることを担保することができない。やはり不安が残ってしまう。

不安が残る理由は、以下の疑念が消えずに、常にまとわりつくからである。

自己満足をしているだけなのではないか。

他者からは認められていないのではないか。
(社会的な関係性から、社会の価値観が否が応でも影響してしまう。そのため、この疑念が生まれてしまう。)

よって、「生きづらさ」は完全には解決しないのである。


寓話「ウサギとカメ」になぞらえて


以下、寓話「ウサギとカメ」にあてはめて、上記を説明する。

上記「①社会の価値観」にあたるもの:先に到着したほうが勝ちというルール

一般的な解釈として、この寓話の教訓としては、以下A,Bが挙げられると思う。

A.ウサギの敗因からの教訓
油断は大敵である。どんな時でも怠けてはいけない。

B.カメの勝因からの教訓
努力を継続することは大切である。努力は報われる(こともある)


ココトモハウス オンラインでした会話の中で、冒頭に紹介した記事の、以下の部分が論点として示されていた。

この話では、亀がこつこつ努力した頑張り者で、うさぎは怠け者とされていますが、しかし、本当にウサギは怠け者なのか、僕には府に落ちない点があります。
それは、うさぎはたまたま足が速かったというだけで、2人が走った距離はまったく同じなのに、うさぎが怠け者だと世間からは思われていることです。
走った距離は同じなのに、どうして亀は頑張り者で、うさぎは怠け者になってしまうのか。

誤解を避けるために書いておく。

この考えには、私も共感する。

以下に記載することは、記載している内容の価値観のほうが望ましいという主張ではない。

問いへの、私なりの回答である。


社会的な判断には、社会のルールが適用されている

「走った距離は同じなのに、どうして亀は頑張り者で、うさぎは怠け者になってしまうのか。」

この問いを考えるときに重要なことは、この競争のルールである。

勝者・敗者は何によって判断されるのか。それはルールによってである。そのため、ルールが重要なのである。

この寓話で扱われている競争のルールにおいては、あくまでも「先に目的地に到着したほうが勝ち」なのである。


ウサギがしたミス
このルールにおいては、寝てしまうというミスは、致命的なミスである。
時間は不可逆であるため、時間を無駄にすることは極めてリスクが高い。

カメの努力
そして、カメは努力を継続できた。
そのため、この千載一遇のチャンスを無駄にせず、このルールでは勝つことができた。
カメに千載一遇のチャンスが訪れたとしても、カメも(ウサギと同様に)寝てしまっていたとしたならば、カメはウサギに勝てなかった。
なので、常に最善を尽くさないと、千載一遇のチャンスがあっても勝つことはできない。

この2つの教訓には(ルールをそのままに捉えるのならば)、合理性があると思う。


上記「②個人の感じ方」にあたるもの:ウサギも同じ距離を走った。

同じ距離を走ったことは(寓話の中では)事実である。


上記「③評価軸を再定義した個人が、その後どう感じるのか」にあたるもの:上記「①社会の価値観」のルールにおいては、負けは負けである

ウサギは、カメと同じ距離を走った。
競争のルールが、「走った距離」であるのならば、ウサギとカメは引き分けである。(上記②)

ウサギが、カメに「同じ距離を走ったのだから引き分けだ!」と言ったとする。(上記②)

カメが本当にいいやつで、「そうだよね。お互い頑張ったよね」と言ってくれるのならば、ウサギとカメは友達になれる。

しかし、カメもカメなりに頑張ったわけである。
カメからすれば、このウサギの発言は負け惜しみにしか(どうしても)聞こえないと思う。
カメはウサギにこう言う可能性が高い。
「いいえ。私の勝ちです。先に到着したほうが勝ちがルールですよね。」
(上記③)

カメはカメで確かに頑張った事実はここで重要である。カメも嘘は言っていない。
カメはカメで必死に頑張ったのである。


総論

「いいえ。私の勝ちです。先に到着したほうが勝ちがルールですよね。」

人間には、この気持ちを増幅させる思考のバイアスが存在する。
成功は自分の手柄、失敗は他人のせい(自己奉仕バイアス)である。

話を実社会に戻す。

例えば、実社会の(いわゆる勝者として)、話を分かりやすくするために(高学歴の)エリートを取り上げて考えてみたい。

私は実社会のエリートではない。しかし、実社会のエリートを見たことはある。
実社会のエリートが努力を重ねてきたことも、間違いない事実だと思う。
エリートも努力をしてきている。

勝負においては、誰も勝ちを放棄したくはない。

カメも、ルールが「先に到着したほうが勝ち」であり続ける限り、(上記した)以下の違和感を、やはり感じてしまうのではないだろうか。

自己満足をしているだけなのではないか。

他者からは認められていないのではないか。


そしてこの違和感は、勝者以外の人間が、あらゆる場面において、社会的な価値判断があったときに感じていることなのだと思う。

その理由を私は(上記したように)、「社会的な判断には、社会のルールが適用されている」からだと考えている。


結局のところ、ウサギとカメが本当に友達になるには、以下が必要であると思う。

「①社会の価値観」の評価軸(この寓話の場合は「先に到着したほうが先」というルール)が変わること。

先に、「②個人の感じ方」に記載した「多様な価値観」で競争するというルールで合意する必要がある。

その時点でルールについて合意していない限り、「③評価軸を再定義した個人が、その後どう感じるのか」に記載した違和感は、おそらく消えないだろう。

社会の評価軸を多様にするメリットは、実は勝者(≒社会的強者)にもある。今日は勝者でも、明日は敗者かもしれないのだから。
しかし、勝者(≒社会的強者)は勝率も高い。なので、インセンティブは働きにくいのが現実であるとも思う。

これが、社会的に努力を強制されているようで生きづらい、その「生きづらさ」の正体であるのだと思う。

「社会的な判断には、社会のルールが適用されている」としたら、社会的な生き物である人間は、必然的にそのルールに引きずられる。

そのために、社会に引きずられて、無理をしてでも努力し続けてしまう。

(結局は)市場の中で認められないと生きづらい。


ウサギとカメが友達になるには、多様な価値観で競争することを先に合意する必要がある。

そういうことなのではないかと感じている。


じゃあ、また。

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