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忘れじの笑み

 笑うことは難しい。
 かわいく見せたい。そう思うとき、私はうまく笑えない。本当に腹を抱えて笑ったとき、目は三日月のように細くなり、頬の肉で見えなくなってしまうし、気を抜くと口も覆わずに手を叩いて笑う。でもそうじゃなくて、例えば集合写真に写るときとか、私一人の写りなんて気にしていられない、一発で決めなければいけないとき。私はぜったい引き攣った笑みを浮かべている。後から写真を見返すと笑いきれていない微妙な顔に腹が立つ。どうせならちゃんと笑え。そうでないなら、目は開いたまま、口角を綺麗に吊り上げて微笑んでいるふりをしろ。すこしでも可愛く……見せようとしても無駄。結局私の顔は私でしかなくて、毎度がっかりする。加工された写真に慣れすぎてしまった者たちの弊害だ。私はうまく笑えない。



 かつてあったものがなくなったとき、人は哀愁を覚えつつ、じきに忘れていく。転校生をやっているとだんだんとわかってくる。そのとき目の前にいる人間の方が大切で、去った者のことを考えている余裕はないし、去る者としてもいつまでもその場所を占めていてはいけないのだと思う。しかし、存在まるごと忘れられてしまってすこし寂しいのが本音。心の片隅にしまって置いてくれたのなら、どんなにか心が楽になるだろうか、と思う。

 建物がなくなるとき。
 それまでそこに建てられていた一軒家が更地に還ると、元の容貌は思い出せない。何階立てだったっけ? 外壁の色は? 屋根瓦は? 誰のものかもわからないそれは水平線と地続きに、人々の記憶から失われ、まっさらになる。まっさらになると新たな時間が構築される。白紙に戻ることはよいこと。きっとそう。

 幼少期、近所に電気屋があった。車通りばかりが多い、ある程度田舎の街だったが、街の電気屋といったイメージの個人経営の店ではなく、チェーン店。新聞の間に挟まっている大量のチラシから覗く大特価の文字。値下げ! 在庫限り! 
 ……そんな文字が読めるはずもなく、それでも私はいつもこの店のチラシを見ていた。狙うはチラシの右上の、にっこり微笑む太陽のマーク。今見れば微笑むなんてものではないのがわかる。破顔一笑なんて四字熟語どこで使うの、と思っていたが、きっと今で間違いない。
 笑みを浮かべる太陽がすきで、チラシを子ども用のハサミで器用に切り抜いては、液体のりで丁寧にノートに貼り付けていた。毎度同じ笑みを浮かべているから、それらが同じページに幾つも並べられる。何処を見てもみんな笑っている。

 この笑みが残る店はもう全国に六店舗しかないらしい。時が経てば形も変わる。街を照らしていた笑みは合併によって元の看板の姿を失い、スタイリッシュに変化してしまった。
 それでも私は、あの笑みを好いていた日々をきっと忘れないだろう。わたしが笑うことを忘れぬ限り。

コジマの看板 by Ui Tadehara

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