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変わり者コミュニティ

 変なものがすきだ。
 しかしそれは大抵変ではない。変なものといってパッと思いつくものはあまりない。変なもの、というのは意外にも市民権を得ていて、大衆に馴染んでいる。これだけインターネットが普及している時代なのだから当たり前か。
 例えを何か考えてみる。目に纏わるものがすきだ。たくさんあると可愛いと思う。目の複数あるキャラクターは可愛い。蓮の実は見つめられてる気持ちがする。サイケデリックアートのGIFも気分が悪くなるまで見る。書き出してみると大して変なものではなくて、ちっともおもしろくないのが残念に思われる。わたしは変なものに好かれていない。

 変なひとがすきだ。むしろ、変だからその人がすきなのかもしれない、と思うくらいには、その人の変なところがすきだ。異常性が垣間見えると親近感が湧く。それこそが人間らしさではないかと勘違いしたくなる。

 意味のわからないことを言うと、君はいつも笑うよね。先日、そう友人に言われた。たしかに笑っているのかもしれない。だって真面目な顔で言うんだもの。おかしくてたまらないでしょう。たぶんわたしのことを笑わせようとしているんだし。やっぱり、何言ってるのかわからないんだし。
 しかし、わたしはそれを彼が自覚して言っていたことに驚いた。なんで自分の言っていることが何であるか、理解できるのだろう。わたしはいつだって、自分の話していることがなんであるかわからないのに。そうしてまたひとつ裏切られた気持ちになった、勝手に。わたしの中の変なひとは、変なひとのままでいてほしかったんだ。

「変わっているね」
 そう言われ続けて育ってきて、いま物書きが集う場所にいる。クリエイティブなことをしたがる人間は案外世の中では少ないのかもしれない、そう思うともう小説やら詩やらを書いているだけで変だということになるんだろうか。
 しかし、普段昼食をともにしていた女子グループ(現在はオンライン講義の為だいぶ会っていないが)に、
「蓼原はこの(文藝)専攻の人っぽくない」と言われた。そもそも此処は変人が集うと言われているのに、だ。
 ほう……? このときわたしは君たちの方が余程変わっているじゃないか。何故かそう言い返せなかった。それでは、一体わたしの居場所はいったい何処なんだろう。そう思わざるを得なくなった。
昔から何処かに自分のスペースを見つけたかった。皆に混じるためなら個を隠してでも埋もれていた方がマシだと思うほどだった。それでもどうしても何かがずれていく。頭の上に植物でも生えているかのように、身体の中にicチップでも埋め込まれているかのように、選別されていく。結局、彼らか、私か、どちらが正解なのかはわからない。

 わたしは何処までもわたしがわからない。だから変わっていると言われて、すこし喜んでしまうのかもしれない。そんなふうに喜んでいるうちは凡人なのだと言う意見も聞いたことがある。変人コミュニティの変わり者。わたしはいつになったら、何者かになれますか。変わってる、ってなんですか。

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