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Break time

 私は日常が壊れることを酷く嫌う人間だ。同じことを繰り返すことに安心し、継続は得意だが、新しい環境に飛び込むのに何度も何度も二の足を踏む。臨機応変ということばとは相性が悪い。複数のパターンの想定を行なって行動するため、基本的には予測の範疇に収まるのだが、そうでない突拍子もない出来事が起こってしまうとパニックに陥る。ほんとに暴れてる。ステージ上で歌うエレファントカシマシの宮本浩二さんくらい、髪を振り乱して何かに抵抗しようとする。

 今日は授業が休講になった。私の通う大学では、開始から30分経っても教員が現れない場合、教務課に確認を取った上で自動休講となる。それはオンライン授業にも適応されるのだが、別のトークルームを開いてしまって入れ違いになる場合もあるため、一概に休講であるとは言えない。
 しかし、本日は休講だったのだ。午後の予定が雲散霧消した。いや、本当は休講が嫌なんじゃない。きっと事情もあるし、課題をやればいいことはわかっているんだけど、そうじゃないの。
 zoomのトークルーム待機中の画面を見つめる。パソコンの画面がこちらを見ている!そう感じた途端、何も手がつかなくなる。そうして過ごす無為な30分。今日の中の日常は失われた。だからこんな文章を綴っている。気がつけば九月ですね。

 まあ、そんなときにとある作品と私の生活とが結びついたわけです。

『失われた朝食』

https://youtu.be/rtcH5k2-fLM

 これは、キューライスさんという方のアニメーション作品。私が下手に解説してネタバレする前にとりあえず見てほしい。脳味噌が融ける感覚が味わえる。どろり。

 画風はあくまでもゆるりとしたアニメタッチだが、これはシュールレアリズム作品だと思う。何処までも現実を突き詰めた結果残った非日常と脳内に起きたバグを、やわらかい線と色味で描き出している。一連の流れ——時間とともに流れてしまいそうなやわらかさを見るとダリを彷彿させる。
 しかし、ダリの柔らかさとはちょっと違う。ダリはぐにゃり、って感じ。何かが歪んでいるのがわかるからこちらは顔を歪めることだってできる。でも、キューライスさんの画風は親しみやすいのよ。傍に寄り添ってくれるようなぬいぐるみを思わせる柔らかさ。だからつい笑顔のまま見るしかない。

 彼がおなじ日常を繰り返すのはそれが合理的であるからだろうか? 私はそれだけでなく、もっと先の、それらによって彼は人間の姿を保っている、ということではないかと思う。
 当たり前とか普通って自然と言ってしまう。それに実体なんてないのに。人それぞれ思い浮かべているものが違うのに、何故か共通認識だと思っている。アンジャッシュのコントみたいなことが沢山起こるはずなんですよ、でも実際にはしょっちゅうは起きない。だから現状に甘んじてる。もっとすれ違うべきだよね。
 
 とそんなことはさておき。当たり前というのもそれまで生きてきた中で構築されたものでしょう? そう考えるとやはり同じことを積み重ねていくことが、自分を形成しているんだなと思う。かつてはオンライン授業すら非日常だったはずなのに、いつの間にか溶け込んでいった。

 完璧主義とは言わないまでも、日常を壊したくないと思いながら生きている。どうしても調子が狂ってしまう。駅の階段で転んだ後とかって一日がブルーになるでしょう、そんな感じ。でもたまに自分で壊すと楽しい。どうしようもないなあ、ってひとりで笑える。日常の破壊。自分の手でするのは、そこそこお勧め。

 今日は日常が、時間が壊れたから、意味のないことばを連ねました。
 ブレイクタイム、小休止。

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