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渦中から君へ10

zoom飲みはよい。

直接会って飲めないのなら、オンラインで飲み会をすればいい。単純な発想だけれど、すごく理にかなっている。君が生まれてからは飲み会というものになかなか参加しにくい状況にあったぼくからすると、オンラインの飲み会が流行るのは逆にありがたかったりする。

先日参加したzoomの飲み会は、もう長らく会っていない大学の友人たちとの飲み会だった。参加した友人たちは栃木、茨城、埼玉、神奈川、北海道、東京といったように今や散り散りになって生活しており、平常時に飲み会を開こうとするのは難しい。実際、ここまでの人数が顔を揃えたのは卒業以来はじめてのことだ。コロナのことがなければこんなことをやろうという話にはならなかっただろう。ぼくらはこうして、コロナによって新たなる可能性について日々気づきを与えられているのだ。

ただ彼らとMacBookのディスプレイ越しに再開して思ったことは、大学時代の自分がいかに縮こまって生活していたかということだ。
久々に顔を見る友人たちを見ながら、彼らに対する憧れや嫉妬、劣等感、そして恐れのようなものを感じる一方で、それを隠すようになんでもない顔をしてふるまう自分がいる。
彼らと接していた十数年前の自分は、石ころのように無味乾燥でちっぽけで、何一つ有意義なことをやっていない人物だったように感じられる。当時の自分からしたら必死で何かをつかもうとしていたんだろうけれど、その実、何も成し遂げていない。
なんとなく覚えているのは、今じゃないし、将来的に何かを成し遂げればいいと信じていたということ。
でも年を経るごとに思うのは、大学時代は何かをやってみる絶好のチャンスだった。卒業したら最後、もうあれほど何かをやる時間的な余裕なんてないのだ。そのことに、もっと自覚的であるべきだった。大学時代の友人たちを前にして、そんなことを思うのだった。

「アメリカン・アニマルズ」という作品は、まさにそういう「何かを成し遂げたい」という思いが間違った方向に暴発する話だった。
それはまさにその後の人生に大きな傷を残す失敗だったかもしれない。それでも客観的に見ていると駆り立てられるし、バカだなあと笑い流せない自分がいる。何かに打ち込んだり、何かを信じ込んだりする力が決定的に欠けていた。アメリカン・アニマルズの彼らにそれがあったというんではなく、ただただそのことを突きつけられたような気がする。

ぼくが本当に伝えたいことは、ぼくが本当に「とらわれていた」ということなんだと思う。

ぼくはぼく自身であることよりも、「こうありたい自分」のために莫大な時間を無駄にしたと思っている。
たとえば友達。
君の周りの人々やメディアは、友達を持つことは大切だと言ってくることだろう。
でも他人というのは本当に難しい。君が君でいることに対して大きな弊害にさえなりえる。いい友人にめぐりあえるチャンスはあるだろう。しかし「いい友人」を持つことを優先するべきではない。まず君が君であること。それこそが大事なことであり、そのことに他の誰かを巻き込むべきではない。君の友人は、君が誰かを定義するために存在するのではない。まず君がいて、それにもしよりそってくれる人があるなら、それが友人なのかもしれない。

今日、君は久々に保育園に登園。こんな状況なので君のクラスには数人しか「お友達」は来ていない。君がやってくるなり保育士さんは「女の子はずっといなかったからAちゃんよかったね」とAちゃんに声をかけた。帰ってきてから連絡帳を見るとAちゃんとなんとなく仲良くしていたということが記録されていた。
しかし、なぜ保育士さんたちは同じ女の子だからというだけで君とAちゃんをくっつけようとするのだろう。
ほかに男の子が数名いたはずなのだ。当たり前すぎることだけど、男の子とだって仲良くすればいい。Aちゃんよりも男の子の誰かとの方が仲良くできる可能性があるはずなのだ。それなのに同じ女の子だからと、保育士さんたちはAちゃんと君をペアリングしたがっている。別に気が合うならそれでいい。でも女の子がAちゃんだけだからという理由で仲良くすることに意味はない。そっちがよければ他の男の子と仲良くすればいい。もし誰も気が合わないなら、一人でおもちゃで遊び続ければいい。

とにかく君が君であることが、何よりも重要なのだよ。ぼくは若い時にそう誰かに言ってほしかったと思う。だから君には言いたい。

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