「うめえ」が聞きたくて
言語聴覚士、というマイナーにもほどがある仕事に就いて、もう次で4回目の春を迎えようとしている。コミュニケーションと食事のリハビリという側面から誰かと関わるこの生活は大変だけど、うんと好きだ。
そんな中であるとき担当することになったのは、お酒とタバコとギャンブルがお好きで陽気な患者さんだった。目を開けてすぐのとき「わたしのこと、見えてますか?」と尋ねたら「見えてるよ!目の前に美人!サイコーの景色!!」と返してくださるような、そんな方。
それだけ元気なお返事をくださる方だけど、症状は重かった。食事をするに必要な機能や筋力が足りず、栄養補給源は胃ろう。それでもなんとかなんとかリハビリを重ねて_________そこまで頑張ってくださっても、プリンをひとさじ、もしくはトロミをつけた、パフェスプーン1杯にも満たないようなわずかな量の水を口にするのがやっとだった。
たった数分、いや数十秒でいいから、わたしの身体と交換できたらいいのに。そんなことを何度思ったか分からない。
最初はご自分が病に倒れたことも知らず「隣の部屋から酒持ってきて」と話していたのに、だんだん状況が分かってきたのか「酒は飲めないんだよね」になったのが辛かった。最初は「肉が食べたい」「餃子が食べたい」と話していたのに「しんどいから食べるのはいいや」と話すようになったのがもっと辛かった。どれだけ解せど解せど、日に日に筋肉は固くなっていくばかり。
それでも液体は喉を通りやすいからか、いかがですか?とお尋ねすると「ちょうだい」「飲みたい」と仰ってくださるのだけが救いだった。医師から許可が出たのをいいことに、思いついたものはすべて試した。
コンソメスープ。薄く溶いたお味噌汁。中華出汁に、ほんのすこしのニンニクチューブで香りをつけたもの。リンゴジュース。オレンジジュース。あとはなんだ。この方が辛くなくて、トロミがついていてごく少量でも美味しく口にできるものはなんだろう。
「今は、何が飲みたいですか?」
ご本人に聞いたら、やっぱり答えは決まっていた。
「酒」
そうですよね。
とはいえ、病院でアルコールが提供できる訳もなく。終末期やお看取り、ホスピスならもしかすると違うのかもしれないが( まったく違う領域なので、分からないけれど ) うちでお酒は出せない。どうしたら。
せめて気分だけでも、と行き着いたのは、うつわだった。
自宅のぐい呑みをきちんと消毒殺菌し、病室にお持ちした。じゃーん、と見せると、お顔がパッと華やぐ。
ごめんなさい、お酒は出せないんですけど。せめて気分だけでもと思って、いかがでしょう。そんな問いかけと一緒にぐい呑みをふたつ。
「青がいい」
はっきりと聞こえたお声に、弾かれるようにして準備をした。工程はいつも通り。でも紙コップに作ったトロミ水を、いつもお口に運ぶのと同じごく少量だけスプーンで掬ってぐい呑みへ移す。これだけの量なら、ご本人にお渡ししても大丈夫だ。うつわごとお渡しすると、啜るようにお水を、ひとくち。それはまるで、お酒を好む人が最後の1滴までを味わうときみたいに。
「うめえ」
そうしてにっこり笑ったその顔を、わたしは今でもはっきりと覚えている。
「これ本当に酒入ってないの?一滴も?」
「……代わりに、真心をたくさん」
嘘は吐けない。でもガッカリさせたくなくて、咄嗟に交わした言葉にもう一度さらに患者さんが笑う。
「だからうめえのか」
わたしもつられて思わず笑顔になった。
まだ飲めそうですか?とお尋ねしたら、うん、ちょうだい。とニコニコ笑ってくださるその表情が泣きそうに嬉しかった。こんなに良い笑顔を見たのは久々だった。
……ああそうだ思い出した。わたし、こういう瞬間のために働いてるんだった。
味や香りのことばかり考えていたけれど、ほんとうに大事なのはそこじゃなかったのかもしれない。もちろん何が正解かは分からないし、これはわたしのエゴや自己満足に過ぎないのかもしれないけれど。
でも、紙コップに入れた水をスプーンから口に運ぶより、ご自分でグラスを傾けて口にするほうが美味しいに決まっている。それが「口からものを摂る」という行為だ。それが生きるということだ。
こうやって今日も明日も、誰かの「生きる」とまっすぐに向き合っていく。
∴ 追記 ∴
食器の対応や様々な食べ物の許可は医師、ご家族の
同意のもと実施しております。また、同様のケースで
あっても病院の方針やリスク管理によっては
同じような対応が難しいこともあるかと思います。
あくまで一病院での出来事だと思って
お読みいただけますと幸いです。
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