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道ゆく人は行き交う人

とても素敵な後輩の男の子がいる。
ずっと存在は知っていたし、去年の夏からは同じフロアで働いている。けれどこれまで縁がなく、ほとんど言葉を交わしたことがなかった人だ。つい最近やっと一緒に患者さんを担当することになり、あれこれ話すようになった。

年下と思えぬほどしっかりしている。いつも朗らかで勉強熱心で、患者さんに対して誠実に向き合っている人。それでいて話すと目を細めて笑い、冗談だって言う。か、かわいい……
同じ年の頃、わたしそんなにしっかりしてなかったよ……といつも思う。わたしはあの頃、もっとバタバタしていた。というか、いや、それは今もか。


加えてお顔立ちも綺麗なので、あらまあ〜という気持ちで眺めている。そしてふと思うのだ。
もしも出会うタイミングが違っていたら、好きになっていたかもしれないな、と。
だってあまりにも、好みのタイプなんだもの。
それは異性としてというより、人として。

もちろん絶対に誤解なきように記しておくが、「好きかも」と現段階で思う気持ちはまっっっっったくない。そういう対象として考えることすら烏滸がましい。なんなら自分のそういう思想に巻き込んで本当にごめんねとすら思う。今の気持ちとしては推しに近い。

どうか良き人とご縁があり、いや性的指向は分からないから人を愛することに固執する必要はないけれど、どんな形であれ幸せでありますように。そんなふうに、思う。これは彼に限らず、大事な人たちすべてに対して。


けれど、同時に思うのだ。
そういう、素敵だなと思う異性に対して、「好きになってしまうかもな」と思わなくなったことが不思議だと。あわよくば、という気持ちはそこに微塵もない代わりに「この人はどんな人と向き合いたいと思うのだろう?」と考えるようになった。素敵だなと思う男女それぞれに対して同じことを思うのだ。

今まで自分→その人、というふうに向いていた興味関心のベクトルが、いつのまにか、自分→その人が気になる存在、に変わっていた。
その人自身とどうこうなりたいという気持ちより( そりゃあもちろん、男女問わず素敵だと思う人と親しくなりたいと思う気持ちはあるけれど ) 、その人が見つめる先に興味を持つようになったのだ。

これは、結構不思議なことである。
もちろん人の嗜好には自ら口を出さないように努めているので、あちらから話題に出されるまで「パートナーはいるの?」なんて込み入ったことは聞かない。けれど、いつのまにか自分が向けるベクトルの先にその人自身がいる訳ではなくなっているのは新しい発見だった。

それに、結婚した今、相当何かが起きない限り異性と今後関係性を発展させることはないのだ。左手薬指の結婚指輪を見ながら思う。決して視覚的には太くない、でも社会的な、確固たる関係性を示す銀色。ここに示されたものを裏切ってまで誰かとどうこうなりたいという気持ちは一切無い。

それはいつだったか、彼も言っていた。
「社会を生きていて常になんだかんだ付き纏う『モテ』という概念から解放されるということだけでも指輪を着けている意味は大きい」と。ほんとうにね。


道をゆく人は皆、わたしが知らない日常を抱えている。

マックの袋をぶら下げ、子どもと手を繋いで帰る人がどこに帰るのかも、嬉しそうに顔を綻ばせながらメンズブランドの紙袋を持っていた女性がどんな人とこの後会うのかも、わたしが知ることはない。

同期も、先輩や後輩も、患者さんのことでわたしがどう悩んでいてどうしたいのか知っていたとしても、プライベートのわたしのことは知る由もない。夫のことは1番知っていたいし、わたしのことを1番知っているとも思うけれど、そうだとしてもすべては知らない。

不思議だ。夫婦いえども共に道をなぞったとて、すべてを知ることはできない。
それでも、彼のことを知りたいと思うのだ。だって夫婦だから。だって唯一同じ道を行く人だから。


愛しい人たち、近しい人たち、どうかお元気でいて。たくさん話をしよう、人生を1単位で見たら瞬きするくらい短い時間しか共にしていないとしても。だって、巡り合ったのだから。




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