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ヴィパッサナー瞑想合宿序盤

合宿の初めはレジストレーションから始まり、その間はまだ話ができるので他の参加者と少し話をした。
みんな、申し込み開始の日に、開始時間前からパソコンの前にスタンバって申し込みをした人がほとんどで、2週間前に何気なく申し込みした私がいかにラッキーだったかを思い知らされる。
参加者は若いヒッピーな感じの人から、年配の人、外国人など様々な背景の人たちが集まっていたけれど、私の年代の人は子育て真っ盛り世代のためか、やはりほとんどいなかった。

最初のメディテーションセッションが始まり、アーナパナ瞑想を教わる。そして聖なる沈黙が始まり、今まで話した人たちとは目も合わせず、口も聞かない生活が始まった。
最初は少し変な感じがしたけれど、私は逆に気楽だった。無理した話しかけることもしなくていいし、変に気を遣うこともしなくていい。そしてスケジュールやルールがきっちり決められているため、日本に戻ったみたいで心地が良かった。けれど、その分とことん自分の考えや気持ちを向き合うことになる。

翌朝4時半から瞑想が始まり、単調だけれど集中力を要するアーナパナ瞑想をひたすらするのだけど、すぐにコックリ眠ってしまう。マインドを静かに、ただひたすら呼吸を観察する。それを1日10時間、3日間続ける。
意外なことに私はずっと座っていることは苦ではなかったけれど、最近起こった人間関係のいざこざに対する怒りや悲しみが瞑想中に何度も込み上げてきて本当に苦しかった。なぜ私はこんな醜い考えや気持ちを持ち続けているのだろうか。手放したいのになぜ手放せないのだろう。辛くて苦しい。なんとかしたい。

瞑想中何度も気持ちが溢れてしまい、瞑想ホールから庭へ飛び出し、静かに激しく何度も泣いた。私がベンチでうずくまって泣いていても、誰も私に声をかける人はいない。励ましてくれる人もいない。そして、聖なる沈黙を守るため、私も静かに、延々と泣くしかない。頭の中では自分の気持ちが散弾銃のようにとめどなく、勢いよく暴れまくっていたけれど、それと対峙するしかなかった。

涙をたくさん流したベンチ


初めの方の講話でゴエンカ氏は「無常」の話をしていた。

苦しみも、悲しみも、怒りも、興奮も、喜びも、すべて無常である。
今抱えている感情は、永遠に留まるものではない。
あなたは生まれた時、あなたは小さな赤ん坊だった。
でも時が経ち、あなたは大人になり、小さな赤ん坊ではなくなった。
人も、自然も、何もかも、この世界に存在するものは常に変化し続けている。
このことを理解し、自分の中に湧き起こる感情に対し「反応」するのではなく、「観察」をするのだ。

「ああ、だから聖なる沈黙なのか」と変に納得した。
泣いている時に誰かに話しかけられたり、話したりすると自分の気持ちを観察することは難しくなる。しばらく泣いていると、泣いていてもどうしようもないことに気づいて、他にやることもないしここから出られもしないので瞑想ホールへ戻って再び瞑想する。すると、意外に落ち着いた自分を取り戻す。が、またしばらくして辛くなりシクシクと一人で泣く。そんなこと何度か繰り返すうちに「無常」を体験することになる。

人はどうしたら苦悩から解放されるのか、どうしたら幸せになれるのかの知識はたくさんもっている。しかし、実際に苦悩から解放されて生きている人はほとんどいない。それは、知っていることを実践する術を知らないからだ。知っているだけでは「習得した」とは言えない。
ブッダは、ブッダが生まれるずっと昔に書かれた経典に苦悩からの解放についての知識を得たが、そこで「実践方法」が書かれていないことに気づいた。そして俗世を捨て瞑想を通して実践方法を編み出し、80歳で亡くなるまでその教えをたくさんの人に広めた。

私は今までにいろんな自己啓発系の本を読んだりセミナーに参加したりしてマインドフルネスや、セルフケア、成功法などと人生をよりよく生きる知識を蓄えてきたけれど、実際に何を実践してきただろうか?と考えさせられた。
何事も飽きっぽく三日坊主で、人にいろんなことをアドバイスをしたり自分の人生観や哲学を語ることはあっても、怠惰で偽善的な自分を目にしては嫌悪の気持ちで襲われていた。そんな自分がすごく嫌で、そんな自分を手放したいとも思ったからこの合宿に参加したんだなと考えていた。
この合宿はあくまで実践が目的であるため、だから本を読んだり、考えを書き留めたりすることが禁止されているのだな、とさらに納得。

最初の三日間はとにかくアーナパナ瞑想を続けて、集中力を高め、感覚を研ぎ澄ます訓練をし、4日目についにヴィパッサナー瞑想法を教わるのだが、そこから本当の試練は始まるのだとその時私は知る由もなかった。

続く


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