「推しの嫁が私」は、解釈違い
推しと結婚したいだなんてこと、誰しも一度は考えるものなのではないだろうか。
「ガチ恋」や「リア恋」などという言葉も日常的に使われるようになったオタク業界では、推しへの感情の一つとしてこの「結婚したい」というのも、広く定着してきているのかもしれない。
また、実際に結婚がしたいわけではなくとも「結婚して!」という言葉をつかうことも多いだろう。以前書いたこともあるが、「尊い」「好き」などという推しへ向ける愛の言葉たちに、「結婚して」も並ぶのだ。それらと同義になるシーンは多い。
しかしここで私は、わたしの中にあるひとつの矛盾について話しておきたい。そう。
私が推しと結婚するなど許せない!
この感情である。これが、私の中には、「推しは私と結婚しよう!」と、隣り合わせで存在しているのだ。
なんと複雑で、歯痒くて、もどかしいことか。
私は私という人間についてよく知っている。だからこそ、こんな女と一緒になるなんて推しが可哀想すぎる、解釈違いも甚だしい、といった気持ちになるのだ。
朝目が覚めたと同時にTwitterを開き、推しの名前でエゴサをし、かと思えばInstagramを開き、新たなストーリーや更新がないかチェックをし、運営の公式アカウントから仲の良い同業者まで、くまなく推しの新情報がないかをチェックする。それからやっと起き上がって顔を洗いにいく日々を過ごしているのだ。
この、朝の5分程度のルーティーンでさえも本当に異常だと思う。こんなことをしているアラサー女と、私の大好きで大切な推しが日常生活を共に送るなど言語道断だ。全く以て許せない。
将来きっと、推しの隣に知らない女が並ぶことになるのだろう。世界でただ一人(だと良い)、推しが生涯を共にしたいと思う人間が推しに選ばれ、そしてその人間も推しを選び、法に基づいて結婚という契約を結ぶのだ。
なんと尊いことか。自らの人生をより豊かにする方法として結婚を選ぶ人間が大多数を占めるこの世の中で、推しも同様に幸せを掴もうとするのだ。恐らくそう遠くない未来に。
こんなに素晴らしい事はない。だからこそその隣に私を置いてほしいという気持ちにはなれない。
単純に似合わなさすぎる。そして根本的に、そんな自信はないのだ。リスペクトし尊敬している大好きな男に、無償で愛が欲しいなどと言う厚かましい事は言えない。
ではなぜあんなことを書いたのか。
ただ、言わせておいてほしい。
これが一番の本音である。言わせてくれ。こちらは消費者で、そちらは生産者なのだ。私はお金を払って推しのライブに行くし、お金を払ってチェキを撮ってもらう。お金を払って推しと話をする。
推しはお金をもらってパフォーマンスを披露するし、お金をもらってチェキを撮るし、お金をもらって私と話をする。
そしてその上でわたしは推しの良さを知り、感じ、様々なコンテンツを通して多くの生活感も見せてもらう。
結果、私の中の推しはどんどん大きくなり、素敵になり、結婚したい相手として立派な成長を遂げていく。
私は推しにこの気持ちを共有しない。私の中で勝手に結婚をする未来を妄想している時間、これが最も至高のひとときだから。
誰にも迷惑をかけず、ただひたすら空想上の旦那こと推しに愛を囁いてもらう。これだけで良い。いや、これだけが良いのだ。
その為に一つだけ推しに願う事がある。まだ結婚しないでくれ。頼む。もう少し後にしてほしい。
既婚者になってしまうと、私のこの圧倒的キモ言動全てにプラス罪悪感が芽生えてしまうから。
今はまだ、一視聴者としての、オタクとしての感想を、楽しませてくれはしないだろうか。
......と、長々と、実際私自身がプライベートな推しの隣にいるという事実は受け付けられない、ということについて話してきたが、この矛盾を理解できる猛者は果たしていただろうか?
ライブ終わりに何個か隣の駅で待ち合わせて飲みに行ったり、仕事終わりに家に泊まりに来たり、平日の昼間に渋谷へ繰り出しハンバーガーを食べたり。そんな事をやりたいなぁと、妄想するだけで幸せなんだという話である。
推しに対してリスペクトや尊敬が生じている事で、自分よりも優れた存在というレッテルが既に貼られてしまっている為に、私なんかがというマイナス思考も同時に生まれてしまっているのが原因なのだろう。
ただこのネガティブは私には丁度気持ちのいい塩梅なのだ。この矛盾した気持ちを私は気に入っている。だからこそこれからも、誰も見ていないSNSにつらつらと推しとの妄想を書き込んでいくのだ。
凄く、凄く厳しい生活を送る事になってしまっているが、それもまたオタクとしては一興であると考える。これからも私はこの矛盾した気持ち悪さと共に生きていきたい。ただDMの返信はいつでも待っているのでめげずに送り続けるし、推しは気付いて私に返信をしてほしい。
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