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ノイローゼ歓迎論―人間の回復を求めてー4

ノイローゼ歓迎論―人間の回復を求めてー4
心理的距離と自我
ここでまた家の構造についてもう少し考えてみよう。部屋の仕切りがたやすく開放され、鍵や錠前がないのは、プライバシーの問題になって来る。お互いがいつでも簡単にお互いの部屋に入る事が出来る。それは、お互いの生活の空間がハッキリした境界が無いばかりでなく、むしろ生活空間も生活時間も一緒にする場合が多い事になる。こういう状態は、お互いの間にハッキリ決まった安定した空間的距離を保つ事も、またある時間の間にも続けてそうした空間的距離を保つ事も出来ない。
ところで、このような知性的認識には、主と客、主体であるこちら側と客体である向こう側の相手、つまり見るものと見られるものとの間に、ある一定の距離が必要になる。言い換えれば、ある距離があって初めて私たちの知性は客体を客体として認識し、その作用を発揮する事が出来るし、そしてそれによって主体が個としての独立が生じる。
この距離の事を一応「心理的距離」と云うが、これを保つ為には、空間的距離や時間的距離が大変重要な意味を持つと思われる。哲学者でカルトは、人間認識の原理を考え極める為に13回も居を変え一切の友人関係から離れ、孤独に身を置いたという事は、伝記としての興味よりも知性的認識と空間的距離との関係について意味深いものを象徴していると思う。
日本語で、ひとを意味するのに人と人間の二つの言葉がある。人という字は、二人の人間が寄り掛かっている形から来たと云われる。これは、密接にお互いが距離を持たないで寄り合って住んでいる場所の状態を反映しているようにも思われる。また人間は、「人」と「間」の合成語であり、これは人と人との間に、ひとがあるという意味に解されている。しかし、実はこれらの解釈そのものが、こうしたお互いの間に距離を持たないで生きている状況の反映であると考えられる。
しかしまた、人間という字は、人の居る間「空間」とも云える。その意味で、人と人とのあいだは、間であり、空間である。お互いに空間がある事が、お互いに独立した「個」として、ひとがあることを可能にする。日本語に「間を置く」という表現があるが、これは空間的にも時間的にも距離を置く事を表している言葉だ。真央置く事で、相手を客観的に理解出来たり、怒りや悲しみの感情も時が経てば落ち着く事は、私たちのよく経験する事だ。
「間を置く」態度は、私たちの生活で余りにも人との間が近過ぎて問題が多いので、それを解決する為に自然に発達した一つの民族の知恵であろう。この事は、独立した自我―個―が、日本的な精神状況においても成立出来る事を物語るだろう。
だが、先に述べたような現在の日本の家屋構造は、お互いの間に一定の空間的距離を保ち難いばかりか、かえってこの距離を無くすような結果になり、心理的距離を保つ事を難しくしている。この事は、日本人を知性的でなくするばかりか、認識の主体である自我の発展と確立を困難にさせている。

自分という自我
元々空間的にも自と他を隔てる仕切り「襖・障子など」は移動性に富んでいて自己の領域がハッキリしない。これは自己が無いに等しく、その場その場で変わるので心理的にも、このような状況の元での自我は、その時々の他との関係によって決められ、割り当てられた部分のようなものになる。
その意味で、正に自らの分は「自分」である他ない。だから、この「自分」として表された自我は、他に依存し他によって決められ変化するから、他律的な自我という事になる。そしてその事は、一面では受身な受動的な特徴を持つ事になる。
しかしそれと同時に、他面では、それぞれの現実の状況に応じて、流動的に弾力的に形を変える適応性を持つ事になる。
だから、このような自我が現実に対すると、必ずしも観念や倫理などによらない、直感的な自由で柔軟な適応性を表して来る。それは、「生きるところのもの」と和辻氏が述べたような現実に密着して生きる力強い生活力を示す。
こうした点で、同じ自我と云っても、「自分」として表される日本的自我は、デカルト以来のー精神分析もその流れを汲むー西欧の近代的自我も持つ主体的・自律的な性格とは違うし、また西欧的近代自我の強い一貫性や固い観念性を持った自我とも違うものである。
一つの例を考えてみよう。例えば、今、汽車の中で二人掛けの座席に並んで腰掛けているとする。二品人が二人だったら、この見知らぬ二人はお互いに黙って腰掛けているだろう。それぞれ自分の安全領域を守っている状態だ。その内一人が下車して行く。すると、一人になった日本人はヤオら背伸びをして隣の席に足を上げて長々と寝そべる。自分の領域がこうしてグッと広がる訳である。そして、次の駅で他の乗客が乗って来ても知らぬ顔をして狸寝入りをして席を譲らない。乗って来た方が遠慮しながら起こすと、嫌な顔をして不承不承起き上る。決して自発的には譲らない。しかし、もしこれがアメリカ人だったら、この二人は見知らぬ同士であっても多分話し合うだろう。そして、一人が出て行ってしまってもあくまでも自分の領域と他人の領域とをハッキリ区別する固い自我意識から、隣の席までは占領しない。
その代わり、日本人の自我は流動的に富むから、二人崖の席に三人でも平気で掛ける。これがアメリカ人だと、一人前の座席を金を出して買ったのだから、それだけの権利があると思って、理由がなければ譲りはしない。二人かけるところへ三人は腰掛けない。これも、西洋人の場合には自我意識の主張が、ハッキリしている為だと云える。
こうした例で見ると、日本人は酷く小心で他人に気を使うかと思うと、一方では酷く図々しい事をするように見えるので、訳が解らないと他国人には感じられる。これは、日本人の自我が流動的で、その時々の現実の状況に合わせて、その領域が小さくもなり大くもなるからである。だから、日本人の自我を「自己縮小型」だけだと考えるのは、日本人の一面を捉えているに過ぎないと思う。

感情的な、余りに感情的な
さて、「自分」で表される日本的自我の特徴としては、知性的であるよりは、もっと感情的・情緒的である。というのは、元々家族という共同体自身があいじょうを中心としているから、その事が知性的態度の少ない受身な自我に影響して知性的認識の主体としてよりも、感情的・情緒的に作用する傾向の強い自我を形作って行くからだ。そして更に、このような自我の感情的・情緒的性格は、次のような要素と結び付いて深まって行く。
前にも述べたように、家屋はそれぞれ言語を通じなくても物音や眼差し振る舞いなどを通じて、お互いの精神状況を敏感に感じたり了解したりする。
けれども、このような方法で受け取られ了解される精神状況は、一定の限界を持っている。物音や振る舞いや視線・目・顔色などによって感知されるのは、気分や感情やせいぜい簡単な気持ちの表現であって、精神の論理的経過や具体的内容をはっきりと正確に表現したり伝えたりは出来ない。この反対に、言語による表現では動機や理由や結論に至る道程が明白に知性的に表現され理解出来るのである。
私が今まで気遣いや心遣いの対象として取り上げた心の状態は、実は情感や気分や意図などの感情的な心理状態である。そして、相手の感情の状態が鈍感に感じられた時に、直ちに反応を起こすものは同じように自分にある感情的なものである。このように自分と相手の双方に起こる感情によって、共感の世界が開かれ情緒的満足や安定感が得られる。そしてまたその感情は常に刺激され鋭敏に反応し揺れ動くが、それによってまた一方、感情生活が変化に道敏感な情緒や美的感覚が豊かに細やかになって行く。
だが、このような過程によってお互いが益々敏感になり、そして益々感情が細やかになる、その結果時として余りにもいわゆる感情的になっていく事も事実である。その上また感情は移ろいやすく変わりやすく、常に不安定性を孕んでいるという傾向がある。しかしながら、この感情無くしては生きる事の実感もあり得ないという事も当然である。しかも、感情は人間の存在を場合によっては知性よりも遥かに強く、激しく、深く、揺り動かすものだから感情の動くところに強い行動を生む事も理解出来よう。私たち日本人が行動的・活動的と見られるのも、こうした事と関係があるようだ。(つづく)

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