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近藤章久の神経症的性格と不安 快楽型

近藤章久の神経症的性格と不安 快楽型


前にも述べたように母親自身が神経症的で不安であると、多くの場合幼児もその影響によって不安になりがちなものです。幼児は当然母親によって安心感を得たいものですが、母親自身が不安である為に子供に本当の安心感を与える方法を知りません。不安で怯えて泣く子供を鎮める為にこの母親が取る方法は、子供にお乳を与える事です。子供は母親の乳房を吸う快楽と食欲の満足で兎も角一時でも不安を忘れます。

こうした方法が決して全て悪いという訳ではありません。健康な母親もこうした方法を取っている訳です。しかし神経症的で不安な母親は、残念な事に安定した愛情を元としてこの方法を取っていないところに問題が生じて来るのです。

不安な母親の元で不安な状態に置かれる幼児は、こうしていつも安定した愛情の代わりに与えられる快楽で不安を免れるという経験を繰り返して行きます。

子供が大きくなって行くに従って快楽を得る対象は母親の乳房ばかりでなくなります。不安な親は、子供の欲しがる物を好きなだけ与えます。子供が好き勝手に楽しんでくれれば実は親自身安心が出来て自分の不安感を感じなくて済むからです。

しかしこうして育って行く子供は、次第に自分が不安になった時は何かで快楽を得て不安を忘れるという方法を身に付けるという事になります。

こうした方法は快楽に耽る事で不安を感じないようにするのですから、快楽による神経症的防衛と云って良いでしょう。その意味で「快楽型」と呼ばれます。

またこうした生き方が快楽に身を委ねて現実的な努力を避け無為を好みその結果、惰性に陥るという点から「惰性型」と呼ぶ事も出来るでしょう。


(1) 快楽型の特徴

1.環境

Dさんの親のように、母親自身が不安で育児から逃避し子供を不安の中に置き去りにする場合に子供が不安を忘れ、それから逃避する為に快楽の楽しみに耽るようになる事は説明しました。

この場合は、母親自身が「依存型」の人であったのが原因の一つである事は勿論ですが、夫婦の関係がうまく行っていない事が母親の不安を救い難くしていた事も事実です。

Dさんの母親は、夫婦関係の不満を後に仕事に専心することで紛らわしていますが、場合によると夫に対する不満の吐口を子供に求める親もいます。

こうした場合に母親は、子供を肌に抱きしめ子供との接触によって性的快感に近いものを無意識に味わい不満や不安を紛らわします。これが度重なると子供自身もそれにより快感を感じるようになる傾向があります。この場合、子供にとって安心感と同時にそれにも増して快感を強く感じると思われます。少なくともこうした母親に育てられた子供は、不安になった場合に快感に浸る事によって紛らわすようになり、特に後になって性的な快楽に身を委ねて不安を逃避する方法を取る例があります。

それ程でもなくても夫婦間に問題のある母親は、それによる不満や不安を子供を溺愛する事によって紛らわす事が多いのです。自分の不満や不安を紛らわす為のものですから、溺愛と云っても本当の子供に対する愛ではありません。しかし母親としては、子供中心に何でも子供の思うままに好きな事をしてやる事が愛している事だと信じているのです。

子供の好き勝手にさせれば自ずから子供は、不快を嫌い快感を感じる事を好む事になります。従って快感の追求を我慢したり不快なものについて努力する事を嫌い、自分は何もしないで快楽を楽しもうとする事になります。特に不安な事は大変不快ですから不安に面すれば面するほど、快楽に溺れて行く事になります。

また逆に、親が厳格で道徳的で特に快楽的なものに厳しい考えを持っていますと、子供は恐怖と不安に脅かされそれから逃避する為に密かに快楽を感じる事に耽る事があります。禁止が厳しく恐怖や不安が激しければ激しいほど、機会さえ得れば隠れて楽しみに耽る事が深くなり快楽への傾向が発展して行く事になります。


2.他の型との比較

この型の人は、他と比べると受身的で快感の満足を他に頼るという点で、「依存型」の人に似ています。

また我儘で自分の思い通りに楽しむ為に他人を自分の為の道具にしている点では、「支配型」の人にも似ています。

更に、他人が自分の快楽に無関係であったり邪魔になったりすれば他人から離れて自分だけの楽しみに耽ったり、人と関わりなくただ無意に惰性に独りで過ごすという点で「孤立型」の人にも似ている処があります。

例えば、「依存型」の人は確かに受身で人に依存する特徴を持っていますが、その態度の中には人に近付いて行ってその愛情や好意を得て人と結び付き愛情的な関係を持ちたいという積極的な気持ちがあります。しかし「快楽型」の人には、態々人の愛情や好意を得る為に努力する事自体面倒臭く楽ではありません。そんな事をするよりも自分の楽しみに耽るか何もしないでいる方が楽で快適です。

「支配的な型」の人は、確かに我儘で自分の思う通りにしたい気持ちがあり他人を支配の為の道具にする態度がありますが、その為に他人が自分を讃美するようにしたり自分が全てについて安全であるように努力したり他人を征服し支配する為に様々な権謀術数を使い、いつも闘い努力しているのです。

しかし「快楽型」の人にとっては、他人が自分より優れようと自分が不完全であろうと人が讃美しようとしまいと問題ではないのです。他人が自分に快楽を与えてくれれば良し、そうでなければ無用のものです。増して、他人よりも優越する為の努力とか征服する為の闘いなど楽でない事をするのは、嫌な事です。大体そんな事を何でするのか訳が解らないし面倒臭くて馬鹿馬鹿しいと思うのです。

また「孤立型」の人は、他人から離れて自分の世界に閉じ籠り独りで居る事を好む特徴がありますが、一方その状態を守る為に義務的ではあるにせよ人間関係の上での必要な社会的な責任は一応果たす訳です。また狭く限られているにしても自分の純粋な気持ちや理想を固く守っている処があります。

しかし「快楽型」の人には、人間関係の上での義務とか社会的な責任とかは聞くだけでも嫌な事です。それをする為には自分の楽しみを犠牲にしなければならないし努力もいるし、ただ苦しいだけで楽ではありません。そんな事はどうでも良いというのが、この型の人の気持ちです。まして自分の理想とか純粋さとかを固く守るなどという事は、何の為だか解りません。「快楽型」の人にとってそんな事よりも快楽が何よりで楽な事が一番良い。

このように見ますと同じ神経症的性格と云っても、前の三つの型―依存型・支配型・孤立型の場合は、積極的か消極的かの差はあるにしても少なくとも他の人間に対する関心があります。

また結果においては、結局「紛らわし」であり不完全な解決であるにせよ兎も角その方法は、「不安を綜合的に解決しようとして取っているものです。そしてそこには、例え神経症的な価値があったとしても追求する価値があり、それに対する努力があります。従ってそこにはある一貫性も感じられます。

しかし「惰性型」の場合は、人間に対する関心は重要ではないのです。他の人間は、それが快楽の対象になった時だけ意味があるのです。その意味で、人間も物も大して変わりはありません。

また全ての型に共通する不安の防衛に関しても、他の三つの型の人がそれぞれ不安を解決する為に積極的に努力して曲がりなりとも綜合的な防衛機構を作っているのに、「怠惰型」の人は、ただ「その時その時の快楽に溺れる事のよって不安を忘れ忘れる事によって不安から逃れるという単純な方法」を取っているのです。

従ってその時の方法は刹那的な一時的な防衛であり、あの楽しみこの快感をとその時々の快楽に身を任せて移り変わる一貫性のない方法です。

要するに、通常この型の人は、快楽を得る為に必要ならば人に依存しまたはたまたまその地位を得れば人を快楽の道具に使う為に我儘で支配的な態度を示し、或いは他人から離れて快楽に耽る「孤立型」の態度が現れる事がありますので、一見しただけではどの型か間違える事もあります。しかし、その態度が一貫しなくともよく見ますとその態度を取る目的がー勿論無意識ですがー不安を免れる為の快楽への逃避を中心に動いている事を発見することが出来るでしょう。


3.葛藤と不安

この型の人の心の中には、他の三つの型の人に見られるような第二次的な葛藤―人に近付く傾向・人に反抗する傾向・他人から離れる傾向の相互間の葛藤は見られません。従ってその葛藤から来る第二次的な不安もないようです。

その為に他の方の人と違ってこの型の人には、苦悩も不安もないように見え謂わば、あっけらかんとしてむしろ楽天的な感じさえ受けます。

しかし良く見ますとこの型の人にも、不安があり葛藤があるのです。

不安がはっきり出て来るのは、嫌な事不愉快な事に面して、しかも直ぐそれから逃げ出せない状態になった時です。この時、この型の人は酷い無力感に陥りどうして良いか解らない激しい不安に襲われます。多くの場合、誰かが助けてくれ、その人に頼って不安状態から脱出するのですが、それも出来ない時はそのまま何もかも放り出して何もしないで何も感じないようにするのです。

例えばDさんは、試験の日が近付くと勉強の方は放り出して一日中寝ていたそうです。これはつまり、サポタージュの方法を取る事です。この方法は、この型の人が不安に面する時に取る特徴的な態度なので、「快楽型」の人がまた「惰性型」の人とも呼ばれる理由があるのです。「快楽型」の人の感じる「不安は、不快な楽しくない嫌な現実の状態に対して、快を求め楽をしたいと思うがそれが出来ない時に起きる不安」です。言い換えれば、「現実の苛酷な要求とこの型の人の主要な価値である快楽への欲求との間の葛藤によって生じる」ものと云えます。更に一見葛藤のないように見えるこの方の人に、「現実と快楽欲求との葛藤」の他にもっと深い葛藤があります。

それは、「快楽型」の人が固執する「快楽への欲求と内在する自己実現への欲求との間の葛藤」です。自己実現への欲求は、他の三つの型の性格の場合と同様に、この型の場合も強く抑圧されてはいますが、いつも消えないで発現を求めてくすぶり続けているものです。

こうしていつも表面は呑気にどうにかなるさと楽天的な安易な態度を取っている「快楽型」の人にも、内にはこうした葛藤がありそれから生じる不安がある事を理解出来ます。


4.症状

こうした不安は、不安として直接経験される事は少なくて具体的にはこの型の人に、無気力感・空虚感・無意味感・悲哀感・倦怠感・息苦しい憂鬱感などとして現れます。

快楽に耽っている時は、不安はあっても忘れ去られ他からも楽しそうに見えますし、本人も楽しんでいるのですが、その時が終わると何かいい知れない悲哀感・虚しさが訪れて来ます。そしてそれかは、次の快楽の機会が来るまで心に低迷しています。快楽の次の機会が訪れるとその中に溺れてこうした感情は忘れて行きます。しかしまた快楽が終われば経験せざるを得ません。

更にこの不快な感情を忘れる為に快楽に沈んでも同じ事が訪れます。こうした繰り返しをしている内に次第に心の中に倦怠感や無意味感が拡がって行きそれらが無気力感を生み、重苦しい漠然とした憂鬱感が心を占めて来ます。これらの現象を症状とし病的なものと気付いて治療を求めればまだしも救いがあります。

しかし治療に行く事は努力を要するし何よりも今まで味わっている快楽の味は離れ難いものであります。簡単に云えば、治療される事はこの型の人には不快です。こうした事がこの型の人の神経症を永続させ、治療の機会を少なくさせる事になります。

この型の人が生きて行く上の困難は、上記のような主観的な症状だけではありません。現実の上でも支障が生じます。

社会生活は、云うまでもなく色々な人間関係の上に成り立っています。人間関係は、お互いに協力したり競争したり愛し合ったり約束したり生産したり働いたりする面を持っています。

ところがこの型の人にとって、例えば働いたり努力したり約束したり生産したりする事は、不快な面倒臭い事です。それは自分の快楽とは何の関係もない事柄です。まして協力したり競争したりするのは何の為か解りません。更に自分が快楽を与えられる意味で愛されるのは良いとしても、人を愛する事など面倒で思いもよりません。

こうして社会生活の面倒な事は不快でやる気がしませんから、社会生活をサポタージュする事になります。

まだ両親があったり一定の財産があったりして不快な社会生活の現実から守られてサポタージュ出来る内は良いのですが、それが無くなって仕舞えばこの型の人の生活は難しくなって行きます。

例えば、就職しても気ままに遅刻や休みをするし約束はすっぽかす仕事はしないというような事になれば、失職するかせいぜい閑職に転任させられる事になるでしょう。

仕事の面ばかりではなく結婚生活でも困難が生じます。自分が快楽を感じる限り、妻に愛される事は良いのですが、妻や子供を扶養したりする責任や家族の事を配慮する義務は面倒で深いであるばかりでなく自分の快楽を妨げるので、サポタージュして逃げ出します。結果は、別居とか離婚とかになって孤独になります。大体この型の人には、自分の快楽を愛しても人を愛する事はない訳です。いずれにしてもその中で酒に浸り一時的な性的な快楽やギャンブルなどに溺れます。

こうした極端な場合でなくても、この型の人は多かれ少なかれ緩慢に侵攻する自己破壊です。酒やギャンブルやセックスや麻雀や麻薬に耽っている内に一方では、無気力感・絶望感が酷くなり他方では身体的にも衰え重篤な疾患が発展する事になって遂に死に至るという事になります。


5.可能性

この型の人に救いはないのでしょうか。

この型の人には、よく知的にも優れた才能がある事を発見します。そして更に深い処に代用品でない本当の愛情を求め、無力感から解放されて、本当の自分を成長させる方法を求めていることに気付かされます。

見方によってはこの型の人は、最も単純な形で幼児期を生きている人とも云えるかも知れません。ただ、幼児期の安全感に必要な本当の愛情の代わりに快楽と云う代用品を与えられ、それによって不安を紛らわすやり方そのものを成長しても続けていると考えられます。

とすれば、この型の人に対しては、暫くの間幼児として認め代用品でない愛情をゆっくりと注ぎ、その持っている可能性を見付けながらその発展の方法をともに考えて行けば、代用品による楽しみよりもっと喜ばしい本当の自分の成長する喜びを知る事になるのではないでしょうか。そして実際、それを経験する事によって安定した自己実現の新しい世界が展開する可能性が存在するのです。

―近藤章久 「ノイローゼ」よりー

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