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Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 3

Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 3


・・ということが必要だと。

(質問者)先ほどのお話ですけども、Horneyの分析のやり方が高良先生のお考えに近くなった、興味を持たれて。

そうです。基礎的な考え方が非常にあっている。こういうものだったら我々は分析に対してね、もっと大きくね、時事新報に書かれたくらいですからね。それくらい非常にこう、今までの森田とFreud派の関係みたいに対立にならないでね、そこらで一つのね、大きな態度を取られたこともあるし。それからまた、それからのたとえばフランスで講演されたこともありますけどね。それなんか、「防衛の単純化」となんか、そういうことをちゃんと云っているんです。そんなことがあって、そういう「防衛の単純化」なんかまったくね、何となく分析くさいでしょう。ですからある意味では、王道の森田の人には不満だったかもしれませんね。しかし、そこでやっぱり単に森田の繰り返しでなくて何かこう解明して行く。そういうこう、そういうものがあって良かったと思うんですね。僕なんかみたいに、たとえば当時の分析を勉強しに行くという時にもちろんそれが慈恵ですから、森田療法中心だった、当時ね。その中から行くということは一種の森田療法に対する不満があるかのように思われちゃいますからね。それに対して、どうかと僕は心配したんですけどね。それに対して初めっからオープンでね。それは良いことだと。勉強して来いとね。云われたことがどんなに良かったか。高良先生の素晴らしいところだと思いますね。何というかな、素晴らしい。

(質問者)Horneyのお話が出ましたけれども、具体的にいいますとHorneyの考えと森田の考えはどのような点で共通していたんですか。

そうですね、あの、何というか、Horneyはですね、あの、insideということを非常に大事にしますね。insideも大事だけれども、確かに、知的な理解だけではダメだと。治療にならないと。それはどういうことかというと、emotionalな経験、もう一歩進めますとね、それはね、emotionalな経験の中でね、知ではなくて情ですね。そういうものを入って来る。情動的なもの。こういうことが非常にね、森田のね、いわゆる体験ということと、近づいているわけですね。だからそこんところはね、やはりのちに少なくとも云っていた。それは彼女の日本での旅行でもっともっと彼女が森田療法に接して、高良先生と、僕が通訳で、お話をなさって非常にね、熱心にHorneyも質問しますし、答えられて、お互いに、非常にこう、ディスカッションがあったんですよね。楽しかったですよ。それでもって理解されましたね。そういうことで、まあお互いの、人間的にもお互いに通じ合ったということがあるんですね。とにかく高良先生もHorneyに親密で愛情に満ちた話で、Horneyはそういう人ですけども。フランクに話されるんですよ。で、そこでもって、Horney自体がね、自分の考えが非常に近い、そういうものを初めて感じたし。それから、あれですよね、Horneyにとっては割合に受け入れやすい説明だったんですね。

(質問者)ここでキーワードになるのは、intellectualなものではなくてtotalなものだと。

そうです。

(質問者)それは森田の中にも十分書かれているわけですね。

そうです。森田はそれをいろんなところで一生懸命云っているわけですが、それは日本人にとって割合に、当然のことなんですね。で、日本人は、intellectual standing ということを「知解」と云っているんですね。仏教語でいいますとね。「知解」、知で解る。で、「体解」と云って、これ、ただボディじゃないんですよ。bodyもmindも一緒になった状態。つまり、心身一路の状態の経験ということですね。それがね、あの、大事なんですね。で、その間に「情解」という言葉があります。ああ、そうか、というわけで納得した時みたいに、「情」の方も入っているわけですね。知の方でわかっても上の方が反対する場合がありますね。解っちゃいるけど出来ないと云うんでしょう。そういう時に嫌だと、解ったけれども嫌だと云う時がありますね。それはやっぱり情の問題ですね。情解。それを超えて行くのは何かと云うと、心と身体が心身一路になった、そういう体験。そういうものが大事ですね。「体解」、これは日本人にとって割合に解りやすい考え方ですから、森田の考え方も非常に日本人にとって解りやすいというのは、そういう文化的なね、今までの蓄積があるんだと思いますね。ところが、あの、西洋的なものは科学主義的なものに徹していますからね、だからそういう形で、「理」で進めるんですね。理を尺にして、そしてものを極めて行こうとするでしょう。そういう態度がね、ものを対象にしてね。その結果が今でしょう。知でもっておさえて行くということでしょうね。だからFreudの場合に、科学的と云います。それがどうしてもそういう方法論的な態度を取らないといけないでしょうね。

(質問者)ある意味では西洋的になった日本人というのは、ノイローゼになりやすい。理詰めで考えやすい。

そうです。

(質問者)解放されない。

うん。

(質問者)それはまさしくHorneyの云う「仮幻の自己」と「真の自己」との葛藤、そこに自分がハマってしまって身動きが取れなくなっている。

そう。僕はね、もう一つ云えることはね、あれですね。確かに封建時代はね、ノイローゼがあったかどうか問題なんですよね。Horneyが云っていることはね、自由になった時にやっぱり、その、統一されないときにノイローゼは発生するんだから、自由というものは仕様がないものなので、そういう意味でノイローゼというものを認めなきゃいかんと云っていますけどね。ですからね、封建時代のあの、いわば封建時代の道徳ですね、縛っている価値観、そういうものと自分の人間性というものと、矛盾ですね。そういうことはあったけれども、その時に圧倒的な支配的なものはやっぱり封建的な価値観念だと思うんです。で、それに、みんなね、結局conformして行くという形になったでしょうね。だから、conformすること、つまりそれに対して従って行くということが一つの解決の道として働くわけですよ、・・(つづく)

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