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Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 4

Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 4


・・ね。それでやったと思うんですよね。けど日本ではやっぱりそれから解放されてたというか、一応ですよ、明治維新以来西洋的な考えを入れて、たでしょう。それで面白いことに、明治の最初でもって僕は、明治の時代に次第に、これが入って来て、たとえば、西洋に行って勉強したりしてね、その中で、夏目漱石なんかの場合にはロンドンに行きまして勉強しているんですよ。どうもどっからみてのneuroticな、神経症的なね、ことがあったと思うんですね。ですから、当時の考え方からするとそういうことは、生物的に考えるから、神経が衰弱したと思っていますな。で、神経衰弱と呼んでいるんですね。そして結構大正時代はですね、神経衰弱が流行ったんですよ。はい。だからやっぱりそこでね、あの、自分の中のやはり自由な気持ちというのとね、それから一面文学なんかに出て来るのね、そういうものがね。たとえば、・・なんかは文学としてあれでも、何でもかんでも、それこそ人間性の変なところまでですね、全部正直になるのがリアリズムだとか云っちゃってね。まあ、そういう文学も出たくらいですからね。まあ、そういう意味で、あの、自由というものをね、そんな風に云えるかも知れないですね。それをなんか見ても時代的な意味でね、やっぱり日本が全体として西洋の知的なものにぶつかった時に、どういう風になるか。やっぱりその、日本では封建時代に、確かに封建的なものがあっただろうと思う。その、情的なものっていうのがね、これはね、日本人に万葉以来ですね、万葉の昔からですね、日本人というのは感情っていうもの、つまり人の情けっていうの、非常にね、このね、重んじたもんなんですね。いわば情けってことになってね。ね。そういう価値観があるわけですよね。でそういうものがやはりね、浸透していると思うんですね。で、誰が聞いても、親子の情とかね、まあ色々あるでしょう。そういう情けっていうのが一つの僕はね、封建時代におけるいわゆる儒教的な、その、戒律に対してね、深くずっと、歴史的に長い間ね、そういう文化に支配されているんですね。今でもそうです。今でも僕はね、いかに西洋的なものを入れてですね、デモクラシーと云ってもですよ、やっぱり何かあると情実と云うでしょう。つまりどうもなあなあ主義だとか、お互いにカルテルを結ぶ時でもね、そういう情でもってね、行くでしょう。そういうところあると思うんですよ。やっぱりちゃんと直視した方がいいと思うんです、僕は。土居君の甘えにしたって情の問題ですよね。そうでしょう。それをやっぱりね、日本人のね、日本の文化の特色として考えて、日本の文化っていうのは、和歌とか、歌を中心に進んでいますね。そういうものがやっぱりそのね、大きなね、我々に力をもっているんですよ。たとえばあの、俳句にしてもそうですしね、そういうものにやっぱりね、なんと云うかな、我々目を向けないといけないと思うんですね。でそんなものがありますからね、結局それによって、なんと云うかな、そういうものとそれから西洋的な考え方ね、理性主義というものとね。それはやっぱりどこかでぶつかりますね。

(質問者)そうですね。先生の仰った情の文化、もし、我々に自分の中の情というか、お互いに感じ合う情を十分感じ取ってYesと、して、そして、こうあるべきだという教条的なものに負けないいわゆる本音というものを、自分の中の本音相手の中の本音を尊重し合えば、ノイローゼにならない筈だと?

そうですね。だからね、あの、森田が云ったことでみんなそれをあまりそれを云わないんですけどね、森田が云ったように感情に関する観察をしていますね。感情の法則っていうの。あれはね、情のね、感情ですから情ですね。それで、そういうものを見てですね、そういうものが働くということはどういうような動きだってことをちゃんと見ているんですよね。それは自然に従って行くのが、つまり、沸いたものに従って行くのが人間としては自然だということですよ。あれは大事なことだと思うんです。日本人としてはね。まあ、たとえば怒りの場合でもね、カーッとなって怒ったら、3日ばかりとにかく我慢しろと。3日経ってまだ怒っていたらそれは本物だ、と。そういうことなんだけども。まさにそういう偏狭に対して、情に関するね、一つのなんというかな、まあ、モットーみたいのが出来ているでしょう。面白いでしょう。

(質問者)まさに日常生活においての知恵でもある。

そうです。本当にそう。ね。だから、情というものね、目を向けないといけないと思うんですね。で、感情ということをだから決して無視しちゃいけないということを、非常に、森田は云うでしょう。それに対して、HorneyもまたFreudを出て行ってそこにやっぱりemotionalな、emotionalって感情ですよね。そういう感情的な動物、感情的な表現じゃなくちゃダメだと云っている。それが非常に似ている。

(質問者)この点ではですね、Horneyの精神分析のアプローチと森田療法のアプローチとは似ていると仰いましたけれども、また同時に治療の方法として森田は感情に対して不問である、と。作業に入る、と。Horneyの方はむしろディスカッションとか、セッションの中で面接の中でいろいろなものが展開していく。それがまた治療のプロセスがあるんだ、と。

そこは同じなんだけれども、そこだけども、しかし違うところがあるわけです。それはお互いの文化の違いだと思うんです。それはね、大体が知的なものを尊重するまあたとえば、輸出かなんかで・・・日本人が一番感じるのは、あの、エホバが自分の息子を、それを、犠牲にしてまでもその、その、人間を救おうという考え。そういうものが日本人のキリスト教徒にすごく来るんですよね。そういうことで感じるように、キリスト自体においては単なる知性ではなくて、loveというものがあったでしょうね。だけども、科学的な考え方になって来てから、やはり知性というものが、どっちかというとobserveしていく知性。観察的知性。そういう状態で、まあ、そういうことになり、Freudなんかに出て来る。結局、そういう文章なんかにもHorneyが、もっと感情を大事にしなくちゃいけない、と。色々な問題が起きているのはむしろ西洋の文化においては、感情が抑圧されている状態を前提にして、そういう分析に。けれども、日本の場合はね、むしろね、感情がですね、abundance。つまり感情が、感情に対してのコントロールを何でしたかというと、それをたとえば俯瞰するとか、そういうことによって、refineする。洗練する。しかし今頃ね、なんというか、段々理屈で、・・(つづく)

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