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ノイローゼ歓迎論―人間の回復を求めてー3

ノイローゼ歓迎論―人間の回復を求めてー3
その微笑は謎ではない
こうした意味で、微笑は意味のない微笑でもなければ謎でもない。それは学生にとっては、一方に於いて自分を精神的混乱によって圧倒される事から守り、他方において外国人教師の感情を傷付けない為の精一杯の努力と誠意の表白なのである。
さて、以上の事からこの日本人の学生は、外国人教師が考えたように責任を実行したかどうかは別として、責任に対する感情がない訳でもなく、先生を嘲る気持ちなどは全くなく、かえって自分の犯した行為によって先生に悪い感じを与えた事を償うように努力しているのであり、自意識が強い事はあっても別に人格の分裂がある訳でもない事が、共感されるか否かは別にしても理解される事と思う。
元より、西欧的な考え方によれば、このような態度は問題の本当の解決ではなくて一種の「形式」によって問題を覆い誤魔化しているとも云える。しかし、このような社会的・文化的形式は、ユングがカトリックの儀式について云っているように「人間が無意識のもたらす混乱によって、圧倒されないように保護する役割」を持っているのであって、その意味で「日本的微笑」も精神的エネルギーの破壊、浪費を防ぎ、その統制を図る為の日本的方式と云えよう。
私は、全ての文化形式は、それぞれの長所と短所とを持っているように思う。或いは、健康さと病的なものを持っていると云って良い。そして私の観察では、人間の身体の中に病的なものが現れると、面白い事に必ずそれを健康なものに返そうとする働きが現れて来るように、それぞれの文化の病的な傾向に対して、それを矯正して、健康なものへ返そうとする力が働く事のよって、文化は新しくされ、発展して行くようだ。
以上述べた「日本的微笑」の文化的背景を見れば解るように、一方に於いて感情の自己中心的表現を抑制する事が、無用な感情の衝突を防ぎ人間関係を円滑にするので、この人工稠密な狭い島国で、日本人が平和に生きて行くのに役立つのである。しかし、他方において、他人の感情を気にする傾向が強く、自発的な感情の率直な表現が妨げられ、「面」の内側での閉ざされた自由に満足して、「面」や自己を超えて更に広く発展して行く傾向の少ない点を、反省する必要があろう。

日本の家のうちとそと
私は、日本の文化の形式がどんな風に日本人のノイローゼを特色づけているか、その考えの出発点として日本の「家」について考えてみようと思う。
今まで、「家」は家族制度または家族関係として、主に法律的・社会的・経済的・文化的な見方から考えられ、その心理状況も、この観点から理解されて来た。だが、私はここで、「家」を家族という人間集団が生きている「空間」として考え、家での精神状況を、その空間状況との関係から理解してみようと思う。

家のうち
まず、家―家屋という建物があり、その中で人間が夫婦とか親子という関係で共同生活を営むーそれが家族であるという事は、洋の東西を問わず共通である。が、既に和辻哲郎氏が指摘したように、それぞれの生活する風土的環境や歴史的・経済的条件によって生活様式が規定され、従って生活の場所としての家屋の構造が、それぞれの国によって異なって来る。
私たち日本人の住む場所としての家は、一般的に薄い軽い材料によって作られた板戸・フスマ・障子などで仕切られていて、たやすく開放され取り外され、一室一室の独立性が殆どないと云って良い。近頃は、高級マンションや公団アパート、団地生活などによる変化はあるが、例えば2DK、3DKであっても条件は変わっていない。外装はコンクリートでも、内部の構造は依然として殆ど変わらない。また仮に窓が閉ざされていたり、襖や障子以外に室を区切る影があったにしても、それはごく薄いもので、それぞれの室内で起こる物音―茶碗の音から赤ん坊の鳴き声までーが、簡単に伝わり、私たちに意識されるようになっている。

物音
けれども、これらの物音は、ただ物音として聴かれるのではなくて、人の立てる物音―人の声や人の行動によって引き起こされる音―として、聞かれる。
その言葉と行動は、私たちの感情や思想の表現として、私たちの生活心情や精神状況を物語る。だから、物音を聞く、物音を意識するという事は、実は人の気配や人の気持ちに気付く事になる。とうると、私たちは例え板戸や襖、障子や壁などで仕切られているにせよ、いつもなんとなしに聞こえて来る物音で、お互い存在だけでなく、それぞれの在り方、気分、気持ちなどを絶えず知らされ感じさせられている訳だ。姿、形はどうにか隠せても、音だけは隠したり消したり出来ない。そういう状況でお互いが共にあり共に感じあって生きている。―つまり、お互いが密接に影響し合いながら協同的な関係を生活の体験として生きているのである。
この事は、日本人が言葉の上で表現されたハッキリした表現によらないで、物音という象徴、または他の現象によって知らず知らずの内にお互いの気分や気持ちを了解したり、推量したりする感受性(敏感さ)を発達させる条件の一つになる。または、沈黙や静寂でも、物音がしないという意味でお互いの気分や気持ちを雄弁に物語る象徴になるのである。

目と顔
そして、障子や襖が開け放たれると一目でそこに居る人のあり方だけでなく、その人とその室内にある家具や物との関係にも隅々まで目が届く。それによって、その人の生活環境は元より精神状況まで目が届くのである。
という事は、人々はいつもお互いの視線を感じるか、または視線を感じる可能性に晒されている事になる。
ところで、視線とは、ただ物理的、生理的な現象だけではなく、それは実は観察し解釈し判断し推量すると共に、その人の感情や意思も告げている。つまりそれは黙っていても人の精神状況や精神作用を物語っている訳だ。
この視線や眼差し、目の動きが人の精神状況を語るものとして私たち日本人は古くから、「目は心の窓」とか、「目は口ほどにものを云い」「目にものをいわせる」「目にかどたてる」「目にもの見せてくれる」など、目に関係した言葉を沢山持っている。
従って、私たちはいつもお互いの視線を感じあっている状況の中でお互いの精神状況を解りあい、知り合う感受性―敏感さが発達し助長されて来ている。そして、視線を逸らす、眼差しを向ける、または瞬く、それらの一つ一つが、それ自体一つの精神的状況を雄弁に物語っている。
その結果、お互いが人の目を気にするようになる。そして、いつも相手が自分をどう見るかと心配する事から、さらに一転して、見られる自分を気にするようになる。つまり、人目を気にすると共に、自分が気になる心理状態が生まれて来る。


ところで、相手の目を見る事は、自然に相手の顔を見る事になる。顔を見る事は、顔の表情を見る事であり、「相手の顔色を見る」とか「窺う」という事になる。こうして、知らず知らずの内に相手の顔に対する注意力が発展して行き、前の場合と同様に自分の顔が気になる事になる。
このように、顔は目と同じように人の精神状況を物語るので、私たちにとって人格と殆ど同じ意味になる。その意味で、その人の感情や意志を尊重する事が「顔を立てる」、またそれを否定したり無視する事が「顔をつぶす」或いは「顔に泥を塗る」事になったりする訳である。(つづく)

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