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Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 1

Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 1


始めましょうかな。

(質問者)始めましよう。質問はたくさんあるんですが、・・・。

そうね、あなたの・・

(質問者)前にお見せしたリストの中から、森田の中にある最も禅的なものとは何だと思いますか。

禅的なもの。例えばそのあれですよね。例えば、「恐怖突入」とかね。それからまあ、事柄の意味を考えていくとね、つまり、「恐怖突入」というと何かこう、言葉だけ見るとね、その、恐怖という対象物に飛び込むということなんだけどね。それなんか禅なんかでよく云われる事でね。あの、例えばね、昔の武士のね、対象にした禅が、行われたわけだけども。例えばね、それの中にわかりやすく示している言葉があるんですね、侍にね。「・・・丹田飛び込め・・・」。これなんか禅の言葉なんだけれども。これとね、「恐怖突入」はそういう事なんだよ。丹田飛び込む時にはまだね、怖いとか、逃げ出したいとかいう気持ちを捨ててね、無いんだな。ただ、ただ飛び込む。ただ、という事。ただということはね、そこは本当にね、人間の気持ちが色々なものにね、分かれないでね、ああだこうだとね、葛藤がなくて一つになっている。石になる。石になる時はものをただこう、考えないから言わばそれは無心の状態と云ってもいい。その時になる。だからそういう点で禅が云っている「無心」だとかね、一致するわけね。「恐怖突入」というと何か恐怖に突入するようだけども、突入する瞬間においてはね、そういう気持ちで今の歌にあるように共通するも気持ちがあるでしょう。まあそんなのが、「恐怖突入」なんかどぎつい言葉を使っているけれども。それはそれで何かをする時に、疑いなく、ただ、成り切ってやることですね。だからそういう点でその時の気持ち、人間の気持ちというものは禅の云っている「無心」なんかとおんなじことなんでしょうね。それが一つ、それなんかもそうです。それからね、あの、みんながよく云っている「あるがまま」とか「そのまま」とか云っているけれども、「あるがまま」というのは結局ね、あの、まあ、そこにあるがままという場合に、要するに人間というものがこう、一つのものを見ると、ある事柄に向かい合うとですね、そこでやはり人間に、この、禅の方で云うならば、あれだとかこれだとかね、その、何というかな、思い、自分の欲によってね、ああだこうだとこの、考えるわけね。そしてあれをしたいこれをしたいとかね。色々と人間の考えはね、乱れるわけね。それはね、基本になっているのは自分のああしたい、こうしたいという欲望なんだけどね。そういうものをね、何というかな、囚われて、そしてそれにまあ、執着して、そうやってやることが人間の煩いのね、煩悩だな。悩みの。煩悩の大きな特徴ですよね。その基本になっているのは結局、あれかこれかと思い煩うことでしょう。それはね、それはいつでも人間が対象というものを、ものを見る場合に普通に考えることだから、それでそうしたことを禅の方ではしないで、その、そのままに自分の、我のね、我欲というか、我見、自分の考えとかから離れてね、素直に、そのままに、その、そういうものからきれいに、何というかな、サラッとしているというかな、ない気持ちで、囚われない気持ちで、その、接していく。対処していくということがまあ、特徴ですよね。まあ、それでいいわけですよね。それをね、森田はね、どういう風に云っているかというと、森田の「あるがまま」とか「そのまま」とかいうのは、それと共通していると思うんですよね。こうでなくちゃいけないとか、例えば強迫神経症の人がこういう具合にしなきゃいけないとかね、何遍か手を洗わなきゃだめだとか、そういうものに囚われているでしょう。そういう風な事を要するに、自分の計らいなんだ。自分の心が左右しているだけの話なんで、とちゃんとメインに考えていてですね、そしてその、そいうものをね、やろうとしている自分の、やらねばいけないとかね、本当はそうしたいということはね、それがないと不安だからやっているわけでしょう。そうしたい、で、そうしたいんだけどそれをやると、完成したならとにかく自分は不安のない状態になるんだと思って一生懸命に繰り返している。何遍やってもそうならないわけなんです。それで、強迫神経症の元には不安があるわけだからね。森田はそれに対して、そのままに物事をね、自分の、さっきと同じだけれども欲望を、自分の欲望や思考に取り憑かれてね、それに支配されてやっているような態度に対して反対に、それと違った囚われない気持ち、そのためにはそれをそのままに、対象を、自分が対象にしてそれをああだこうだと、こうしようとか思っている気持ちを捨てて、そのままに素直に、その環境に対して、対していくというのが結局「あるがまま」ということになるんでしょうね。そういう風にまあ、一つの心の態度をね、取っていくということが森田の目標としていることでしょう。そんなことで共通なことがありますね。

(質問者)先生、仏教の中で解脱という言葉がありますね。森田の中でも「囚われからの解放」というのがありますが、「解脱」と「解放」というのは、どこかでオーバーラップしているわけですか。

結局まあだから自分をこう支配している、自分が支配されていると云ってもいいけど、要するに、自分自身の欲望とか、渇望ね、そういうことによって囚われている自分というものを、から解放される、それを「解脱」と云うし、あるいは「解放」と云ってもよろしい、ね。それを何というかな、あの、頭で考えても出来ない。それはやはり自分の行動というかな、体験というか、そういうもので、行動による経験ですね。そういう体験というもので感じて行く。経験して行く、ということがまあ、森田の特徴でしょうね。

(質問者)森田の書いたものの中には、森田療法は禅からきたものではないと。

そうです。何も禅からね、禅から学んで直接、僕はそれでもいいとは思いますけどね。当時の森田さんの居た時というのは、昭和の早い時でしょう。だからその当時森田さんは呉さんという、呉教授が東大にいた時の、その時の弟子ですからね。で、その呉さんというのは、当時ドイツから、ね、あのドイツの精神医学を持って来て科学的にやろうということでしょう。で、だからその、まあ科学的な精神医学、そういうものを、当時の明治以来のね、その特徴ですよね。それでやって行こう。とにかく日本の人が全体で、西洋の科学的な考えでやる。開化主義で、学んで行こうと。まあ文明開花ということで、トップにいた人というのは・・(つづく)

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