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「ノイローゼ」15

「ノイローゼ」15
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敗戦によって、軍閥は倒れましたが官僚組織は生き残り財閥は一応解体されましたが、戦後の低迷期を経て高度成長の時期を迎えて復活し、新興の財閥と共に新しく強大な活力を示して来ました。言い換えれば、戦前に云われた富国強兵のうち強兵は放棄されましたが、高度資本主義の確立を意味する富国は依然として存続して来ている訳です。
こうした我が国の状況においては、膨大な官僚組織とそれを動かす政治権力、更にそれを支える巨大な金融機関・大企業を根幹とする資本の三つは、主な権力の中心になっています。
また、これらの組織に人材を供給する教育機関は、全国的に整備され数多い試験制度の下で、優秀な学校入学の為の烈しい競争が行われているのが実情です。
権力の為の闘争
こうした事から考えると、明治以来云われた立身出世とは、何とかしてこれらの権力の中心に近付き、その組織の中に地位を得る事であり、その為に他と烈しい競争をして優れた学校に入り更にその組織の中での競争に打ち勝って行く事になる訳です。一言で云えば「権力の為の闘争」です。
その意味で、所謂親の云う「偉くなれ」という事は、「立身出世せよ」という事であり、更に、権力の為の闘争に打ち勝って、「権力の座に付け」という事になります。この事は、Bさんの例を見ても解る事と思います。
私たちの日常で親が子に「偉くなれ」と求めるのは、言葉に現して云うか云わないかは別としても、謂わば常識になっています。考えてみれば、競争に勝って立身出世する、そして権力を得る事、それが重要な価値ある事であるという考え方が、世の中のー私たちの文化でのー至極当然と云われている考え方だという事を物語っています。
元々競争による利益や権力の追求は、近代資本主義の国々の文化に共通なもので、我が国が開国と共に先進国の文化を輸入した時から必然的に行われたものです。従って、それが私たちの文化での価値になり、常識となったのも当然と云えます。
権力志向のもたらす危険
しかし、この事を先に私たちが理解して来た「支配型の人の権力への強迫的な追求、その激しい競争心や復讐心などの神経症的態度」と関連して考えますと、それは支配型の神経症を作り出して行く危険性を持っているようです。
Bさんの例でみるように、Bさんの母親はBさんに「偉い人になれ」と云いました。Bさんは母親に認められ受け入れられ安心感を得る為に、「偉い人」になる努力をしたのです。母親のこうした考え方の背景には、自分の育った環境、夫や義父の優れた社会的地位・権力などがあり、それらに対する誇りと価値観があった事は明らかです。そして、その基準には明治以来の我が国の文化の主流となった立身出世主義・地位やそれに伴う栄誉や権力による優越・支配への追求を価値とする文化がそれを支えていた事実を見逃す事は出来ません。
そうしてみますと、このような文化を支配する価値観が、Bさんの母親の考えを支配し、更にBさんの考えや行動を支配する動機として働いている事がわかります。そしてそれは、Bさんの不安を逃れ安心感を得る為の方法として利用され、結局結果としてBさんの神経症を生んでいるのです。
こうした地位や名誉や財力や知力や、それらによる力を価値とする文化は、ただ支配型の神経症を生むばかりでなく、またそれを強化するのに役立ちます。
Bさんにしても時々隙間風のように孤独感や寂しさが心に染み込んで来て、人に愛されたり愛したりしたい気持ちに襲われるのです。また、他人の敵意や反抗や復讐を恐れたり不安になったりしないで、安心したいと思う事もある訳です。しかしBさんは、そうした自分の人間らしい気持ちが襲って来る度に、それを感じてはならない自分の弱さとして、恥、軽蔑し、抑圧するのです。
自分は知能優れたエリートであり、常に他人との競争に勝ち優越した地位にいなければならない、他人につけ込まれない為に絶対弱味を見せてはならないという気持ちに支配されているのです。前にも申しましたように、この気持ちを支える為にBさんはこんな風に考えています。
何と云っても世の中は力なんだ。今の社会では、力のあるものが支配しているのが現実だ。みんな表面は大人しそうな顔をしていても、腹の中では力を賛美し権力を得ようとして、互いに隙を狙い相手を蹴落とす事ばかり考えている。世の中がそうなんだから、自分の考えは正しいのだと自分に言い聞かせています。これは、自分を納得させるばかりでなく、そう理由付ける事によって、他人に対する自分の態度を正当化する、合理化と云われる態度です。
確かに、私たちの文化には、陰に陽に力に対する崇拝・賛美があり、それを価値としている事は事実です。ですから、Bさんの云う事にも理屈があるのです。しかし、その事を利用して折角自分の心の中に出て来た人間らしい気持ちを押し殺し、自分の神経症的態度を合理化する事は、益々自分の神経症的な傾向を進めて行く事になります。
こうしてみると、地位や名誉や財力や知能による力を重視し、それらを価値とする私たちの現代の文化は、支配型の神経症を支え強化する状況が理解出来ると思います。
個人の能力を認め、その発展と努力の結果による地位や名誉や財力の価値を認める事は、誤った事ではありません。それは、個人を身分を主とした制度から解放した近代的自由のもたらした大きな利点でしょう。しかし、それは同時にBさんの例に見るように支配型の神経症を生み出し、更にそれを強化する可能性を持っています。
この事が、人間本来の自己を発展し実現する事を妨げるならば、それは人間を身分の奴隷から解放したには違いないにしても、新しく権力の奴隷にする危険を持っている事を知っておきたいと思います。


孤立型と我が国の文化
物言えば唇寒し
「物言えば唇寒し秋の風」という句は、よく知られている芭蕉の句ですが、自分の気持ちを露わに口に出して表現すると後悔する事になるという意味であるとの事です。「口は禍の元」というのも同じ意味でしょう。いずれにしても、言語による自己表現が、人間関係に良くない結果をもたらす事を云っている訳です。
その他、「見ざる聞かざる言わざる」という三猿主義も対人関係で出来るだけ自分を表現しないで、他人との関わり合いを避ける事が賢明な生き方であるという事を語っていると思われます。また「出る杭は打たれる」というのも、対人関係で自分を主張したりすると他人の敵意や嫉妬を受けて酷い目に合うという意味で、自分を表現しないのが安全な方法である事を教えています。
今では知らない人も多いと思いますが、明治から大正を経て少なくとも戦前まで、官僚として出世する為には、「さよう、しからば、ごもっとも、そうでござるか、しかと存ぜぬ」という態度が必要な態度として云われていたものです。つまり対人関係で相手に今の言葉で云えば、「なるほど、ごもっともですね、そうなんですか、しかし私ははっきり解りません」と云って、適当に相槌を打って相手に同調するように見せ、しかも、自分の考えは何一つ表現せず、自分の責任になるような事を出来るだけ避けているやり方です。
こうした人間関係では、お互いに相手の真意に直接触れる事が出来ず、所謂「肚の探り合い」の関係になります。それぞれが相手の気持ちを想像して勘ぐりや思惑を働かせます。その間、表面は丁寧な形式的な言い回しを使って、自分の真意は相手に解らせないようにして、相手の気持ちを窺い、自分の安全を守るという複雑な関係になります。
こうした私たちの生活に見られる人間関係の特徴を、先に「配慮的」と呼び、私たちの文化は配慮的な性格を持っていると申しました。
配慮的文化の影響
配慮的文化は孤立型の場合には、どんな影響を与えているでしょうか。
Cさんは、自分の人間関係を出来るだけ少なくしています。その人間関係でも自分から積極的に自分の感情や意志を現しません。寧ろ、そうしたものを極力抑圧しています。そして、他人との関係に当たり障りのない態度で一定の距離を置き他人が自分の世界に入って来るような機会を避け、他人から離れた処で自分の安全を守ります。そして孤立した小さな狭い閉鎖的な世界の中に平安を見付けるのです。
こうしたCさんの態度をよく見ると、先に述べた配慮的文化の個人的な縮小板と云っても良いではないでしょうか。お互いに出来るだけ差し障りのない形式的表現で付き合い、自分の心いや本当の気持ちを口に出して自分を表現したり主張したりするのを避けるやり方は、正しくCさんがとっている態度です。
他人に気を使い、その肚を推察しようとする態度は、Cさんの他人の気持ちに敏感な態度と同じです。ただCさんの場合は、主として他人が自分の領域に侵入して自分の安全が犯され不安になる事への神経症的防衛の為の敏感さです。しかし、これも私たちと程度の差であるかもしれません。その意味で、私たちの文化にある配慮的性格は、Cさんのような孤立型の神経症的性格の母型と云えるかも知れません。
勿論、この事は私たちの文化が直ちに神経症的であるという意味ではありません。先にも申した通り私たちの文化の配慮的特徴がお互いの間に思いやりのある言外の意を察したり、云わなくともお互いに解り合う情味のある暖かい人間関係を作る良さがあります。
また、日常の気を使う複雑な人間関係にあっても時折そこから離れて、独りになってホッとして自分を取り戻す、所謂息抜きの出来る自由を私たちの文化は与えてくれています。それによって私たちは、神経症的にならずに元気を回復し心の健康を維持する事ができるのです。
しかし、Cさんのように生まれてからの色々な環境の影響で生じた不安を人間関係から退き離れて孤立的な神経症的態度で防衛する型の人に対しては、我が国の配慮的文化は、その神経症的態度を保全し強化する危険もある訳です。
一般に、このタイプの神経症的態度の人は、余程の事でないと診察に訪れて来る事が少ないようです。少々の症状だと自分の事を治療医という他人に知らせるよりも我慢して自分の孤独を世界の中での平安を守ろうとするからでしょう。しかしまた同時に、こうした態度は、我が国の配慮的な文化の中では、特に目立って病的だと思われない事にもよるのではないでしょうか。
けれども、これは残念ながら神経症的な態度です。何故なら、一見平静で満足しているように見える態度の裏には、「孤独と悲哀と無気力感・絶望と諦め」が深く横たわっていますし、何よりもその人の持っている生命の可能性が、生々とした成長を妨げられているからです。この型の人が、自分らしさを狭いながらも純粋に保っているだけに、その発展の無さが嘆かれるのです。
戦後の状況
ところで、戦後は我が国の文化の良い意味での配慮的特徴が失われて来たように思われています。そして甘えとか依存的な特徴が強くなっているように考えられているようです。確かに、他人の好意にも垂れ込み付け込んで利用する傾向の方が多くなり、他人の気持ちを察し相手の身になって思いやる暖かい気持ちが少なくなっているようです。
しかし、そうかといって悪い意味での特徴は全然無くなったのでもないようです。相変わらず色々な公式の会などでは発言はあっても何となく曖昧で毒にも薬にもならない。その場限りのものが多く、率直で自由で活発な表現は少ないようです。場合によると何の為に会合をしたのか解らない程、発言が無く黙り合って結局少数のものに一任して終わるのを見ます。「物言えば唇寒し」がまだ通用しているようです。
しかし若い人々は自己主張を自由にするようになりました。一般の人も事が自分の直接の利害に関係して来ると中々強引な発言や強い自己主張をするようになって来た事も事実です。こうして全体的には今までの伝統的な配慮的な文化の特徴は少なくなって行くように思われます。
都市生活
さて戦後の高度成長は、戦前には思いもよらなかった都市への膨大な人口の集中を生みました。そこに集まった人々は結婚し家庭を作りその家庭は夫婦と子供で構成され、子供の数もせいぜい二人程度のものです。親と子供の二世帯で構成されたこの少人数の家族は核家族と呼ばれるものです。しかし、少人数であっても夥しい数にのぼるこの核家族の全てに一戸建ての住居を提供するには都市の空間は限られています。限られた空間での住居問題を解決する為に多数のマンションやアパートが建てられました。2DKかせいぜい3DKまでの狭い家ですが、それでもそれがこれらの核家族が住む住居です。
こうした家は、一つの大きな建物の中にありますが、その一つ一つは鍵を閉めれば他と関わりのない閉鎖的なその家族だけの孤立した密室になります。孤立しているだけに、その家族のプライバシーは守れますが、日常生活では隣の人と何らかの関係のない孤立した状況です。こうした状況で、他者との関わりとか連帯感とかいっても無意味な事は当然でしょう。そこでは人間同士の思いやりとか心の触れ合いとかは必要のない事であり、従ってまた発展する事もない状況です。
最小の人数の家族と住み、自分の私的な世界が確保出来、他人との接触が最小限であるこうした環境は、およそ人間と関わりたくない孤立型の人にとっては、最も都合の良い環境である事は、安易に理解出来ます。
元々都市の生活は、住民の間の協力や連帯感が少なく、そこに住む人々に孤独感や孤立感を与える傾向があるのですが、最近のこうした住宅状況は、その傾向を更に強める事になっています。それだけに現在の都市での核家族の生活は、孤立型の人の生活態度を維持しその神経症的傾向を強化するのに役立つ訳です。また、そうした孤立的な家庭状況の中で育って行く子供が、どのような影響を受けるかは、今後の重要な問題として考えられるべき事でしょう。
レジャー文化
ところで、戦後の高度成長は非常に豊かな消費生活を生み出しました。私たちの個人生活でも今まで考えられなかった色々な物質的な欲求を満たす財貨を獲得し、享楽する事が出来るようになりました。拡大再生産の波に乗って消費する楽しみを覚えた私たちは、更に多くの物を消費し楽しむようになりました。それに応じて、いわゆるレジャー文化が力説されました。そして私たちの人間関係もこうした楽しみを中心にして付き合い楽しみを共にする事を意味するようになりました。
こういう人間関係も勿論人間関係の一つとして認められるものです。しかし、その質から云うと、例えば麻雀したりドライブやゴルフを共にしたり一緒に酒を呑んでも、それだけの事で狭い人間関係に終わりがちなものです。
しかし、レジャー文化の中で育った若い人々には、受験を通じての競争的人間関係を別として、この種の人間関係は安易で馴染みやすい人間関係であった訳です。若い人々は、こうした一般的に拡がっている人間関係を当然の事として受け取ったとしても不思議な事ではありません。・・・(つづく)

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