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近藤章久の神経症的性格と不安 孤立型

近藤章久の神経症的性格と不安 孤立型


子供が、親を中心とする自分を取り巻く環境から安心感を得る事が出来ないので、不安になった時その不安から逃れ不安から自分を防衛する為に取る方法が発展して次第に神経症的な性格を作り出しますが、その中の依存型と支配型については前に述べました。いずれも心の中の深い基本的な不安とそれから生じて来た色々な葛藤による二次的な不安とに動かされて強迫的で時や所や相手を構わない度の過ぎた無差別的な態度で無意識に行動する点で神経症的でした。

しかしこれから述べる孤立型の人は、一見落ち着いて大人しく他人に対して控え目で激しく攻撃したりしつこく絡みついて甘えたりしませんから、余り神経症的な感じを与えないタイプです。

けれども、この型の人も実は前の二つの型の人と負けず劣らず神経症的で同じような不安や葛藤があるのですが、ただ、それが激しく表面に現れていないだけなのです。

表面に現れていないものですから、自・他共に余り気付きません。症状でも対人関係の問題としてははっきり出て来ないので寧ろ本人自身漠然とした無気力・無意味感・倦怠感・悲哀や絶望感・何か毎日を惰性で生きているような味気ない気持ち・一言で云えば一種の精神的な麻痺状態として感じるものです。また心理的な症状としてでなく、例えば頭痛だとか、体の怠さとか、その他内科で不定愁訴とか、または心身相と呼ばれる身体の不調などの形を取って現れる事も多いのです。そのために良く身体的な病気と考えられかえって治療が遅れたり難しくなる場合もあります。


(1) 孤立型の特徴

ここでCさんのような諦めによる孤立型の神経症的性格について、少し詳しく考えてみましょう。

この型の人の幼年時代は一般にどんなに認められようとしても自分を認めてくれない環境で過ごさなければならなかった事が多いようです。Cさんの場合のように親が感情的で気分本位である時は好意や関心を示すかと思うと、直ぐ気分が変わって怒ったり冷淡になったりすると、子供はどうしていいか分からないで混乱して不安になり、また自分がどう思われているのか分からないで不安になります。

また別の親は、積極的に子供の意志を抑え付け権威的に圧迫して文句を云わせない態度を取ります。子供は不満を持ちながら親の権威の前に屈従し自分が認められていない事を体験し不安になります。

また表面は権威的でなくても無言の内に圧迫的であったり、或いは冷淡で無関心であったりする親に対して前と同じように自分が抑え付けられた感じがして、自分を表現出来なかったり自分がはっきりと認められ受け入れられるという保証がないので不安になります。よしんば愛情が与えられる場合でも、それが全く親の勝手な都合で子供を理解し子供に必要な心のこもった適切な配慮を与えるというのではなく、寧ろ親が自分に子供の愛情を求める為に愛情を与える態度を取る場合もあります。

例えば、よくあるのですが親が「私はこんなにお前を愛しているのだからお前は私を大事にして世話してくれなければいけないよ」等という態度です。つまり、愛情は愛情でも押し付けの愛情であり紐付きの愛情です。紐付きですから、いつも束縛された気がして親の愛情をありがたいと感じるより息苦しく感じます。

また子供が親から愛情が欲しいのに、親の方が子供に対して一方的に愛情を要求し期待する場合もあります。子供は、こうした状態では親が重荷になって同じく息苦しくなりその重圧から自由になりたいと思います。

このように親の態度が権威的であったり依存的であったりする違いはあっても、共通なのは親が自己中心的で陰に陽に自分の欲求や期待を子供に押し付け、自分の思うままにしようとし、子供の持つ個性や一人の人間としての感情や考えを認め伸ばそうとする態度のない事です。

こうした独善的で拘束的な親の態度に対して子供は初めの内は親の意に従って愛情を得ようとしたり、反抗したりする事によって自分の安全を保とうとしますが、その内どれもやりがいの無い試みだという事を体験します。絶望した子供にとって残された方法は、そうした親の圧力から離れて小さな自分の自由を得る事で安全を保つ事です。Cさんは、客間の孤独の中で得たものは、こうした自分の為の小さな自由でした。

本当の意味の自由が自分を人間として解放し、成長させる為の自由であり明るい未来への進展を意味するものであるのに対して、この場合の自由は自分を取り巻く人々から逃避して孤立する事による自由であり、謂わば自分の周りに見えない壁をめぐらして保っている自由です。明るさや希望よりも孤独の寂しさや絶望や悲しみがある自由です。しかしそれは寂しくとも悲しくとも孤立しても子供にとっては、ただ一つ得られる自分が安心出来る小さな安息の場です。それだけに必死になって守る訳です。

こうして子供は、親の圧力を免れる為に表面親に素直になり云う事を聞く態度を取りますが、心の中では自分の小さな自由を頑固に守り続けます。そして次第に親に対してはできるだけ近付かないようになり、自分の楽しむものを見つけ自分一人だけの世界を持つようになります。一見手が掛からなくて大人しい子ですから親もそれなりにしておくようになります。

このような態度はまだ早い時期では固まっている訳ではないので運良く友達や仲間や先生などに受け入れられ認められ愛されたりすると、変わって行くものです。しかしCさんに見るようにせっかくそうした機会があっても他人の敵意や嫉妬で脅かされ妨害されると諦めて、また元のように閉鎖的な態度に戻って行きます。

同じくCさんに見られるように友人があったとしても、大抵数も少なく自分に危険を与えない大人しい性質の人達です。そしてその交友関係も深くなく表面的です。

こうした孤立した気持ちの中には、いつも自分の自由と安全を脅かすものとして「他人を危険に感じ恐怖している潜在的な対人恐怖の気持ち」があり、支配型の人と違った意味での「人間不信」があり「敵意」があります。また「満たされなかった愛情への願い」もあり「自己主張への欲求」もあります。

これらが時として表面に出るのが思春期の頃です。的いや自己主張が反抗期の形を取って現れ、今まで大人しかったのが時に激しい革命的な行動に出ます。支配型の人が権力を打ち倒す事によって権力を得ようとするのに対して、孤立型は自由と独立の為に権力に反抗する態度を取ります。しかし大抵の場合、革命的な運動が仲間との深い連帯感を必要とし従って関われば関わるほど自分の自由や独立を脅かされる矛盾に当面して脱落します。

また特に女性に多いのですが、愛情を求めて激しい恋愛に身を焼き自由に奔放に振る舞う場合もあります。

しかし恋愛の場合でも、Cさんの場合にも見られるように相手の愛情が激しければ激しいほど確かに刺激的ではあるが、自分の行動や心情が束縛され自由が無くなる事を発見して身を引きます。仮に恋愛が結婚に至ったりしても相手の愛情の要求に従う為には自分の自由を犠牲にしなくてはならない場合には離婚するか、別居するとかする事になりがちです。

こうした思春期から成人期に至る間の花火のような華やかだが儚い一時期が過ぎると、他人との深い関わりを避けた静かな平凡な生活に入って行くのが普通です。Cさんが、結婚せず茶道教授の道を選んだのもこの経過を物語っているように思います。

こうして他人から距離を保ち離れる事によって一応安定を得て、自分の安全を保つ事が出来る事になりますが、この方法による生き方が次第に確立されて行きます。

① 心の中の葛藤

孤立型の人は他人から離れ自分の周りに一種の心理的壁を巡らして他人の侵入を阻んでいるので、確かに他人の脅威に晒されず安全ですし、他人の愛情は諦めているから裏切られる事もなく、他人と競争しようとしないから憎まれたり恨まれたり攻撃されたりしません。そして他人に関わりなく自分の好きな事をする自由と独立もあります。寧ろそうした自由や独立を楽しみそれを価値とし誇りとする気持ちが出て来ます。そして自分を世俗を超越した孤高の人間であるとか自由を守る独立自尊の人間であると思います。

こうした自分に対する考えーー或いは自己像と云っても良いものですがーーは、本当は合理化の産物と云っても良いものです。しかしまたそれは、諦めてはいるが未解決のままで心に潜在する人に優越したい欲求の表現としても理解出来ます。一見他人に関わらないで他人との競争を問題としない態度を取りながら内心自分の方が他人より優れていると優越感を持っているからです。

同じように未解決のままで潜在している他人の愛情や好意に対する願いは、屈折した形で現れて来ます。この型の人は、時として他人の気持ちを敏感に覚りその為に色々配慮する事があります。そして、自分のする事が他人の期待を充分に満たさないと他人が自分に敵意を持つのではないかと不安になり、その責任が自分にあって自分が悪いように思い一方的に自分を責めます。ここでは前の優越した自己像との反対の自分を小さな価値の無いものと見る劣弱な自己像が現れて来ます。

このような自己像についての矛盾があるばかりでなくこの型の人が示す他人の気持ちに対する敏感さというものは、実は、他人が何らかの形で自分の領域を侵し自分の自由を脅かしはしないかという不安から来る敏感さでもあります。従って他人の気持ちを汲んで何かをしたり期待に沿った行動を取るのも、それは他人との面倒な摩擦を起こすのが嫌でする事が多いのです。

つまり本当は自由でいたい、しかし他人の敵意は受けたくないという矛盾した気持ちがあってするのです。ですからその行為の裏には、嫌々ながら止むを得ずとかいう気持ちが流れているのを見逃す事は出来ません。そこでまた謂わばお義理に最小限の必要な事だけをして出来るだけ他人との関係に巻き込まれないように他人から離れる態度を深くして行きます。

こうして他人から離れ自己像の矛盾による不安があるとしても、一人で音楽を聞いたり絵や自然を鑑賞したり幻想に耽ったりして自分の気の向くまま生活をしますが、基本的にこの型の人の生活は、人間同士での間での共感や連帯感や愛や相互の刺激がありません。自由はあっても限られた狭い世界であり、独立があるようでもその実は孤立です。それは安定したように見えても、不安をはらんだ「淀んだ生」であり、生の本来の姿である「他と共に生き成長し発展する同的なもの」ではありません。

その結果ここで対人関係ばかりでなく自分自身の内部にも重要な変化が訪れて来ます。自分が欲望や野心を持つ事は、その充足をする為に他人を必要とします。しかし他人を必要とする事は、他人に関わる事であり他人に縛られる事になります。それは自分の自由や独立が妨げられる事です。自分の自由や独立が侵されるくらいなら自分の欲求や欲望を無くして行く方がまだ良いのです。こうして自分の自然な欲求や願望の感情を抑圧し無視し「諦めて行く態度」が取られます。そのもたらすものは当然、「無気力と憂鬱感」でしょう。

しかしそればかりではありません。もっと重要な事は、こうした態度を取り続けると自分の本当の感情や欲望は何であるかが解らなくなって来るし、「無感動」になって来ます。確かにそうした自分の状態を他人事のように「眺めている知的な自分」はありますが、「眺められている自分」は、「空虚で中心の無い生々とした感情のない自分」です。

また、自分を動かす情熱や欲望や野心や愛情を断念しますから、積極的に生きる目標を失ってただ限られた自由での現状維持の生活になり、所謂努力の意義を感じる事が出来なくなります。寧ろ自分に努力を強いる外部からの力を自由に対する干渉と感じ憎みます。しかしこの憎しみも外に出すと面倒が起こるので感じないようにもします。

こうした敵意を含んだ自分の感情に無関心な態度をとる事によって未解決の矛盾した感情は解消される筈はなく身体的なものに転化して所謂「心身症」と云われる症状に悩む事にもなります。

② 対人関係

この型の人の特徴は、他人に目立ったり重要な地位に就いたりする事を出来るだけ避ける態度です。例えばたまたま自分の能力が他人に認められ昇進のチャンスが与えられると断ったり、止むを得ず引き受けても一通りの事しかせず場合によっては怠けて結果的にはその地位から外され出世街道から外れるような事になります。

これはCさんの例のように、他人の敵意や嫉妬によって自分の安全が危険になるという不安があると共に、高い地位や新しい職務に伴う責任や他人からの期待に応えなくてはならない事が自分の自由を束縛し圧迫すると感じるからです。

同じような理由でこの型の人は、他人との共同作業や会に参加したりするのを嫌がります。止むを得ず共同作業に加わる時でも、作業が義務的な重荷と感じられて自発的な活動が出来ずいつの間にか身体的な病気などを理由にして辞めたりします。会に参加した場合でも他人に目立たないように末席に座り沈黙しており出来るだけ早く退席する機会を狙っています。意見を求められても大抵当たり障りのない曖昧な返事をして済まそうとします。

他人との約束や締切日のある原稿を依頼される事は、重荷に感じられるので出来るだけ避けます。しかし現実の生活で何らかの約束はしなければならず、締め切り日のない原稿はないのですから急に取り消すとか何とかギリギリまで延ばすとか、または出来るだけ早く書いて済ましてしまうとかします。他人からの手紙も返事を強制されるものとして負担に感じるし盆暮の贈答も義務的に感じて気が重くなります。極端になると月々の支払いや届出も面倒臭くなり、遂には歯を磨いたり料理をしたり清掃したりする日常的な事も負担になり束縛と感じるようになる場合もあります。

この型の人は、異性関係でも決して深い愛情関係に入る事をしません。愛する事も愛される事も共に自分の自由を束縛するものと感じ、不安になるからです。よしんば、性的な関係に入るとしてもその関係が一時的でその場限りの後腐れの無いものに限り、初めから用心深く別れる事を考えている事が多いようです。

異性関係に限らず例えば自分の同胞や親族との交際もごく儀礼的な表面的な付き合いだけにして、私生活の自由と秘密を頑固に守ります。

しかし他人から見ますとこの型の人は、大人しく謙虚で自分の分を守り義務感が強く支配型の人のように威張ったり押し付けがましくなく、また依存型の人のようにしつこく甘ったれない為に、良い人だという感じがします。

③ 浅薄なタイプ

社交的で要領が良い、所謂プレイボーイなどと云われる人の中にこの型の人を発見する事が良くあります。その人は次々と違った異性を適当に選んでは離れ、麻雀や競馬や酒の付き合いなど友人の数も多いし適当に楽器もこなし歌も歌いスポーツもこなし表面から見ると真に社会に良く適応しているように見えます。とてもノイローゼなどと考えられるような人ではありません。

しかしこうした人と接してみると一見社交的に見える人間関係も、極めて浅いもので深い愛情や親しさが欠けているのを発見します。全ては一時的でその場限りのものです。色々な遊びや趣味を持っているようでも本当に深く楽しんでいるのでは無いのです。仕事を含めて何事にも良いが加減で適当なところで切り上げ心から楽しみを感じたり深く追求したり感動したり熱中する事がありません。所謂「白けた」態度と云われるものです。

この底に流れているのは、愛情や希望や感激や努力や誠意など真実への追及などについて、「・・しても仕様が無い」とか「どうせ駄目なのだ」とかいう諦めの気持ちが強いのです。その気持ちにいつの頃からか知らぬ内に因えられ支配された結果がこうした深みの無い本当の生きる歓びの無い「白けた」、結局は「絶望をはらんだ浅薄(センパク)な生活」になっている訳です。

このような態度による生き方は、しかしまだ若い内はこんな調子で何とか過ごせますが、次第に歳を取るに従って先に述べた「諦め型」の人に共通な憂鬱・絶望感・空虚感・無意味感などの心理的な症状や身体的な症状を経験する事になって来ます。その生き方が、一応適応した生き方のように思われるだけに気が付かない事が多く、それだけ内側から自分の生命を次第に蝕んで行く危険が多いのです。

④ 成長の可能性

自分を不安から守る為にある人々が他人から遠ざかり他人との関係に巻き込まれない態度を取り、自分だけの私的な狭い自由の世界の中に安心を求める気持ちが理解されたと思います。

そしてその為に自分の自発的な感情・自然な欲望や要求を諦め、遂には他から孤立し孤独の世界の中で自分の本当の気持ちや自分自身が一体なんであるかも解らなくなり、色々な症状を発する過程も理解する事が出来たと思います。

この「諦め型」の人は、支配型の人が攻撃的で野心的で精力的であったり、依存型の人が愛情や好意を求めて懇願的であったりして、病的ではあるにせよ、そこに何かを人に対し求めている意味で一種の正気を感じる事が出来るのに対して、どこか冷たく一見死んでいるような感じがします。しかし本当にこの型の人には、生々とした成長の元である「自分」と云うものが失われているのでしょうか。もしそうであれば、この型の人は治療という事は不可能という事にもなる訳です。

その答えははっきりと否です。言い換えれば、本人は気付いていないにしろ深いところで本当の自分になる可能性が決して失われていないという事です。

治療上の経験から云いますと、治療が進むに従ってこの型の人にはそれまで断念していた他人に愛されたり愛したりしたい気持ちや他人に優越したり世の中に認められたい欲望などが現れて来ます。それらを体験し味わい認めて行く内に人によって、遂に人間らしい本当の自分の可能性を発見し、そうした自分を認める事によって溌剌と自分を成長させる歓びと生き甲斐を見付けるようになるものです。つまり隠れていた自分を発見する訳で、考えてみればこれは当然な事かも知れません。

元々この型の人は、初めは人の子として愛情を求め自分を認められる事を願っていた人です。しかし求める愛情は得られず与えられたとしても紐付きであったりして束縛され、また自分の才能を発揮して認められようとしても嫉妬や中傷などで傷付けられ、反抗しても周囲の力で押さえ付けられたのです。そうした状況の下でせめて例え小さくとも純粋な自分を失うまいとして取った生き方なのです。

他人からの影響や圧力から出来るだけ離れて、例え狭い限られた範囲であっても懸命にその中で自分を確保しようとする態度がある訳です。確かに他の神経症的態度と同じく自分の安全の防衛の為にのみエネルギーを使い未発達の幼稚な自分である事は事実です。しかしここはそれだけに純粋なまだ歪められていない自分があります。

それは、未発達であるから発達を求め幼稚であるから成長する可能性を持っている自分です。媚びもせず諂いもせずまた烈しい野心や猛々しい敵意に身を任せず独力で静かに自分の分を守っている点で、これまで述べた三つの型の中で一番清潔な生き方をしているかも知れません。

しかしそれにしても、いかにもこの自分はひ弱です。折角の良い苗木も充分な水や日光や肥料が与えられなければ成長しないで立ち枯れるかやっと生存するだけに終わってしまいます。これらの人にある純粋な自分も他からの愛情や助力や支持や激励・言い換えれば他の人々との何らかの親しい触れ合いがなければ成長する事は出来ません。

しかしこの「触れ合いこそ、この型の人が一番不安を抱き脅威を感じるものであるところに矛盾があり困難さがある」のです。

実際、治療に当たってもこの型の人は治療者を自分の自由や独立を侵害する危険な侵入者として感じるのです。治療者の愛情は自分を束縛する意図を持っているものと思い、助言は要求か命令のように受け取り、支持はうっかり頼ったらいつ放り出されるか解らないという不信感を感じ、激励は自分に対する干渉として感じるのです。それを顧慮せず、治療者が行動すると遂には「かまわないでくれ」「放っておいてくれ」という態度を取るようになり治療者と患者の相互の協力を必要とする治療が進行しなくなる事になります。

しかし前にも述べたように、一度こうした防衛的な態度が揺らぎ始めると次第に閉じ込められた狭い世界から自分を解放し積極的に自分の可能性を認めてそれを成長させて行く態度が開けて来ます。こうなりますとこの型の人には、比較的純粋に自分らしい自分が保たれていただけにかえって優れた個性的な才能を発展させて行く人々が多いようです。そして、今まで「防衛の為に他人から離れ他人との間に距離を作っていた態度」が変わって「他人を客観的にゆとりを持って理解する態度」になります。

また、今まで独立とか自由とか云っていた事は、その実孤立に過ぎなかったのですが、それが自分の考えや感じた事を自由に表現したり自分の判断によって行動をする本当の自由や独立に変わって来ます。その結果、意見を交換したり集団で討論したりして他人と接触するようになり、他人との競争も恐れずまた共感する事が出来るようになります。

全体として、生々とした感情の流れが発展し、初めの状態と比べるとまるで氷が解けたような印象を受けます。私は、しばしば乾いた地面を深く掘って行く内に突然噴き上がる水源に触れたような経験を、この型の人の治療をして感じた事があります。

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