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「ノイローゼ」16

「ノイローゼ」16
・・・まして、単調無味な強制された受験勉強に倦き嫌悪を感じている場合には、こうした楽しみだけの人間関係を快適に感じるのも自然です。こうして色々な状況で適当に楽しみ要領良く振る舞いスムーズな社交を巧みに行う若い人々が多くなりました。一応これらの若い人たちは、好きな事をする自由と独立を持っているように見えます。
けれども、このような人間関係で経験されたものは、たとえそれが愛とか友情として語られるにしても、一時の線香花火のような浅い感情であり、その状況から離れて独りになった時に虚しく消えて行くものです。そこに満たされない連帯感・孤独感・焦燥感を感じる訳です。
こんな事を2、3度繰り返せば、こうした人間関係の底が見えるようになります。大人を見ても同じように底の知れた付き合いをしているので、愚劣で馬鹿らしくなります。いずれにしても、人間関係自身に何の期待も持てなくなり、そんなものかと諦めて適当にやるという事になります。一見、明るそうに楽しそうに見えるのに、内心は空虚で無気力でつまらないのです。
そして、学生時代を過ぎて暫くすると、次第に小さな私的な世界に閉じ籠り積極的な活動から遠ざかって安全で平凡な惰性的な生活を送るようになる人が多いのです。表面、平安に見えますが、実際は、無気力で諦め敵で孤独感が強いのです。
こうした傾向は、私たちが孤立型の特徴として見た傾向と大変よく似ています。
言い換えれば、高度成長のもたらしたレジャー文化は、表面の明るさにも関わらず無気力と諦めの孤立的傾向をもたらした事になります。従っていうまでもなく孤立型の神経症をもたらす条件として働く危険があると考えられる訳です。
このように見て来ますと、伝統的な配慮的な文化状況においても、孤立型の神経症的態度が助長される事が認められますが、それが薄れて来たかのように見える最近でも、高度成長のもたらした文化状況が同じように孤立型の神経症的傾向を強化する地盤になりつつあるのに気が付きます。

快楽型と我が国の文化
快楽の自由
戦後の我が国は長い不況に苦しみ生きる事自体に人々は必死になっていたものですが、戦後焼土に帰した国土で、またしても生きる為の努力をしなければなりませんでした。幸いに色々な事情に恵まれて経済の発展があり所謂高度成長を遂げる事が出来ました。国民の生活水準も戦前・戦後暫くに比べれば遥かに上がり、消費生活も豊かになりレジャーブームと呼ばれるほど生活を楽しむ傾向も出て来ました。
こうした状況を背景にして、人々の間に楽しみを追求し快楽を味わう事を当然とする考え方がおのずから広がりました。これは、戦後に自由が強調されると戦時中の禁欲的な生活の反動として何よりも自由が欲望満足の自由として理解された事にもよりますが、拡大すると消費物質の生産がそれを可能にしまた促進した事にもよるのでしょう。
こうした私たちの生活態度によって私たちは外国人にエコノミック・アニマルと呼ばれ、また近頃はセックス・アニマルと呼ばれるようになりました。前者は、私たちが物質的な利益を貪欲に追求する態度を現し、後者は、性的快楽を追求する京楽的な態度を鋭く表現しています。
こうした態度を人々は謂わば公然と肯定したり賞賛したりする事はないにしても、この物質的利益の追求と快楽の充足は、暗黙の内に当然な事として承認され殆ど常識になっているように考えられます。
勿論、営利活動といい快楽の充足といい共に私たちの生きる事の一部を成しているものです。それ自身、善い悪いという事は云えませんが、ともあれ私たちの国の現代文化は、好むと好まざるとに関わらず、この快楽追求の方向に進んで行く性格を持つものと思われます。そして、この傾向が暗黙の内に社会的に価値付けられ、たとえ無意識にせよ人々の行動に影響する時、色々な問題が生じて来ます。
父親不在
そうした問題の中で重要なのは、こうした現代の文化の中で育って行く若者たちに対する影響です。
先にDさんの例で見たように、Dさんの父親は仕事の為には何ものをも犠牲にするエコノミック・アニマルの典型的な例です。
こうした父親はDさんの父親ばかりではなく仕事の為に時間を取られ自分の子供に接する機会もなく、従って愛情や理解を示す暇もありません。そして子供の養育や教育は全て母親に任せられる事になります。
母親の愛情が子供の成育に大切な事は勿論の事ですが、しかし全てではありません。父親の理性的な判断とか、意志的な態度とか、行動性とかは父親が主として経験している社会の現実についての的確な知識や豊かな情報の伝達と共に子供の成長にとって重要な意味を持っているものです。
特に、父と母の間の信頼に満ちた愛情的な関係は、子供が安全を感じる基礎となるものです。そして、その安心感は両親の間の話し合いや心の触れ合いがあってこそ保たれ、成長するものです。しかし事実は、夫は生活費に困られないのが自分の家族に対する愛情だと思い、妻は夫を生活費を運んで来る道具だと思っている関係、言い換えれば、夫婦の間の愛情が金銭で象徴され代用されている関係が多いのです。Dさんの悲劇もこうした父親から発したものと云えます。
こうして見ますと、現代の我が国における父親のあり方は、父親の名前はあってもその実質を伴わない父親不在のあり方であると云えます。
母親の快楽志向
子供にとっての父親不在は、また妻にとって夫不在を意味します。夫との触れ合いは月何回かの性交渉に限られ、それが愛情の代用品となります。お互いの語り合いの時間は、夫の仕事の為に奪われて、それによる慰めや寛ぎや安心感は得られず、たとえ話し合いがあったとしても子供の教育や家計などの事務的な事に限られますし、それも夫が「任す」という言葉で自分に押し付けられる事が多いのです。
家事による手間は、幸いに便利な器具によって省かれ夫の収入で生活の不安はありません。確かに物質的には恵まれた生活によって自由な時間はありますし、エネルギーもあります。
しかし、生活が物質的に恵まれているのも関わらず母親の心の中には、愛情に本当に満たされない不満が底流し同時に与えられた時間やエネルギーをどう使うかという問題に面して不安になりがちです。
こうした不満や不安を解消する上で一番やり易い方法は、一つは安逸な生活に流れる事であり、もう一つは子供に関心を集中する事によって忘れる方法です。
よく、「ばば抜き、カー付き、三食・昼寝付き」という言葉が多少の自嘲を込めて結婚生活の理想として語られますが、これは楽で怠惰な安逸の生活を意味しています。夫や子供が職場や学校へ出掛けて行った後は簡単な家事を適当に済ませテレビに齧り付いたり他の奥さん方とのお喋りに時を移すという生活です。これは、怠惰な快楽を中心とした生活と云えるものです。
しかし、こうした安逸な生活は楽な事は確かですが本当の意味での生活の充足感が無く、漠然とした不安や無意味感が底にある訳です。先に自嘲的に語られると云いましたが、その事はこうした不安や無意味感の半意識的な表現であると云えるでしょう。
もう一つの方法である子供への関心は、通常一見違ったように見える二つの方向を取って行きます。
過保護の母親
一つは子供を甘やかし我儘放題に育てる方向です。
この場合、子供の云いなりになり、その欲する物をプラモデルからオートバイまで何でも買い与え、それで子供を満足させるのが愛だと無意識に思っているのです。それが子供を認めその自由を尊重している事と信じているのです。時には、自分の方から進んで子供に色んな物を買ってやり、それで自分が満足して安心するのです。母親はまるで子供の召使い同然になり、子供のご機嫌取りに汲々としている状態です。
考えてみれば、母親自身が妻として物質的な物によって満足し楽な安逸な生活を与えられる事が愛だと思い込んでいる状態ですから、子供を愛する場合にも物質的な満足を与える事が愛する事だとして、こうした態度を取るのも無理からぬ事です。
子供は勿論このような母親の接し方によって我儘放題、自分の欲望を満足して楽しむのですから自ずから快楽的な傾向に親しみ、それを当然の事に感じて行くのも自然の勢いでしょう。
この態度が所謂過保護的と云えば、もう一つの態度は、謂わば過干渉的と云えるものです。
過干渉的母親
過干渉的な態度を取る母親は、自分の不満や不安を紛らわす為に自分のエネルギーや自由な時間の全てを捧げて子供に関心を向けるのは同じですが、その関心の向け方が子供の行動に一々注意を払い自分の思った通りに子供をさせなければ気が済まぬという風になります。その反面、子供が自分の思った通りにすれば子供の欲する色々な物を買い与えてやります。こうなりますと親子の関係はちょうど商売の取引関係と同じになって来ます。つまり子供は母親の要求するものを提供し、自分はその対価として欲する物を得るという事です。こうして、愛は知らぬ間に物質的な満足に変質し取引の材料になります。
その意味で、過保護の場合と方法は違っても子供にとって愛が物質的満足を意味し快楽で代用されている事は同じです。
その良い例が、私たちの周囲によく見る所謂「教育ママ」の場合です。「教育ママ」の要求は、子供が有名校に入りエリート・コースを歩む事です。そして自分の子供が他を負かして優れる事を何よりも望むのです。
これは、実は母親自身の支配的な虚栄心の満足で、本当に子供の成長を願う愛ではありません。その虚栄心の満足は、自分の不満や不安を解消しようとしている面が多いのです。
またエリート・コースを望むのも、優越を望む事は勿論ですが、同時にそれによって将来安楽な生活が得られる事も期待している訳です。その意味で、ここにも快楽や安逸を肯定し価値としている態度が見られます。
一方、子供は母親の要求に強制されて勉強させられるので面白い事はありません。しかし、嫌々形式的にやったとしてもやれば対価として自分の好きな物を買って貰って楽しめる訳です。本当の親の愛情は兎も角として、少なくとも快楽の満足はある事になります。こうして、過保護的な母親に育てられる子どもと同じく、過干渉的な母親によっても子供が快楽的傾向に馴染んで行く状態が準備される事になります。
管理社会の影響
高度成長による発展は、企業組織の拡大と共により能率的な生産や販売などの企業活動を要求し、もたらしました。企業組織の隅々までその為の管理が徹底的に追求されているのが現状です。その結果、その組織に属しそこで働く人間自身の行動も組織の目的に適合するよう統制され管理される事になりました。
その事は、企業それ自身の維持と発展の為には当然の事ですが、人間自身の在り方としては問題を生じます。人間性の全てが企業の管理の枠の中で満たされるものでは無いのは明らかです。その枠で縛られ抑圧された部分は、厳しい枠を外される事を求め、その枠を外されるや否や反動的に充足を求めます。そして、その充足の最も安易な形は、快楽の充足です。
元より、高度成長の初期では所謂猛烈人間・エコノミック・アニマルとして企業の目的に自分を同一化し、栄達昇進する事に専心する傾向があったのですが、成長の鈍化と共に寧ろ管理の枠に一応適応する形を取って保身し、それ以外の処で楽しみを求める傾向が多くなって来ました。
楽しみを求め安易な快楽を満足する事は、先に述べた戦後の快楽肯定的な文化的傾向によるものですが、その為の施設が手頃で手近な充足の機会を与えてくれます。バー・キャバレ・ポルノ映画・競輪・競馬・麻雀など様々なものが快楽を与えてくれます。そして人々は、当然の事として疑う事もなくこれらの快楽に耽る訳です。これが、管理社会に見られる快楽追求の傾向です。
こうしてみますと、一方で戦後の高度成長は欲望肯定・物質的快楽の追求がもたらしたものです。が、他方このような快楽追求の傾向を増大さす事が更にその発展の為に必要だったのです。その上、高度成長の根幹である企業組織がその管理の度合いを高め、その事がまた快楽充足への傾向を強める事になったと云えます。そしてその結果、この傾向が現代の我が国の文化の一つの特徴を作っているように思われます。
こうした文化傾向の性格は、育って行く若い生命に両親を通じての影響と並んで、直接に色々な機会を通じて影響を与えている事が見られます。テレビとかを通じてもそうですが、
実際に現実を見聞きすることで影響を受ける事が多いのです。それは、無言の内に知らず知らずの内に影響を与えるものです。こうして育って行く子供の中に快楽への欲求が刺激され増大して行く事になります。
以上、戦後の我が国の文化に欲望の自由な充足を肯定し快楽を追求する傾向のある事を述べ、それが関節には子供たちに両親を通じて影響すると共に、また直接にはテレビその他を通して影響を与える事を述べました。
その事は、我が国現代文科の持つこの傾向は、直接関節を問わず神経症的性格の一つである快楽型の形成の苗床ともなり、またその形成を強化する働きを持つ事を教えます。
その危険を具体的に生かして防ぐかは別として、少なくともその危険について認識しておく事は、私たちの健康な心の成長の為に必要な事と思います。・・・(おわり)

(―弘文堂1979年初版 近藤章久「ノイローゼ」よりー)

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