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近藤章久の神経症的性格と不安 支配型

近藤章久の神経症的性格と不安 支配型


これまで述べた依存型の人が、自分の不安を防衛し安全感を求める場合は主として人の好意や愛情に縋り他人に頼り服従する方法を取るのに対して、この支配型の人は、種として地位や身分や財力による権力によって他人を支配し服従させる事によって自分の安全を図り、不安から免れるという方法を取ります。

依存型の人にも先に説明したシンドバットの会った老人のように自分の無力さを訴え他人に同情や助力を強要する事によって、受身の形を取り、その上で他人を支配する事があります。しかしそれはあくまで隠れた裏側からのやり取りですが、支配型の人ははっきりと表面から力によって他人に優越し他人を支配する方法を取ります。

この解り易い例として、子供達の関係を考えてみましょう。

子供の中で体が大きく腕力が強い子供は、自分の体力に物を言わせ仲間を圧迫し支配する所謂餓鬼大将です。これに対して体力が弱く喧嘩をしても直ぐ負けて虐められる弱い子供は、餓鬼大将に服従してその手下になり強い子供のご機嫌を伺ってその保護の下に安全を図ります。

この関係は、力による支配型と依存型の簡単なモデルです。

しかし、私たちの社会の複雑な仕組みの中ではただ体力の強さだけでは力によりません。そこでは組織の中での地位や社会的名誉や知的な優越性や豊かな財力が権力の源になります。これらのものを所有有する事によって他人に優越し他人を支配する事が出来ます。

そこで、自分の中の不安に悩まされ自分の安全を求めて止まない人が、強迫的にこれらの権力の元となるものを求め、それによって安心感を得ようとする理由も理解出来ます。

(1) 支配型の特徴

① 弱みを見せない

例えば支配型のBさんは、他人に自分の弱みを見せるのを酷く嫌がっている事に気が付きます。

Bさんは、自分が病気を気にしている事を自分の弱みと感じ、それを人に知られる事に屈辱感を感じています。この事は自分が弱さを持っている事が自分自身に対して許せない気持ちがある事を示しています。もし自分自身が弱さを持っている事を人間として当たり前の事として認める事が出来たら、他人に対しても弱さを示す事にそんなに拘らないでしょう。つまりBさんは「自分は弱くあってはならない」という考えに取り憑かれている訳です。

② 優越感・プライド

またB さんは、他人に対して強い優越感を持っているようです。部下の人も何も好き好んで病気になったわけではありません。仕事の為に病による不便を我慢しながら出社して働いている訳です。しかしBさんにとっては部下が自分に不安を与え不快な気持ちを起こす事は許せない事です。Bさんは心の中で部下を罵ったり軽蔑します。特に部下を「頭が悪い。鈍感だ」と罵倒するBさんの言葉は自ずから「自分はそんな人間と違って敏感で頭の良い他人の立場を考える人間だ」という優越感を表現しています。

自分の知性や精神について優越感を持っている人は、大抵こうしたプライドを持っています。自分は頭が良い、自分の考えは優れていていつも正しいと思っている人にとっては、それを疑われたり少しでも批判されたりする事は自分の価値を否定されたと同じように屈辱的に感じるものです。

③ 自己中心

Bさんはまた自己中心的です。

本当は自分が不安であり不快になっているのに、部下が病気である事が仕事に支障をきたすかのように云い、これは表面を繕う理屈であり合理化です。実は自分に不安を与えたり不快な感じをさせるものを嫌だから追い払ってしまう為のものです。つまりここで大事なのは、自分の感情でそれだけが中心になっているのです。

Bさんの自分勝手な自己中心的な態度は、他の事からも窺われます。あたかも仕事を中心にした行動をするように云いながら自分は不安な感情に襲われると仕事を放り出して早退しています。自分の事で頭が一杯になっているのです。

④ 支配欲

その圧迫的な要求的態度は、その状況を自分の思うままに支配しようとする態度を現しています。

⑤ 名誉心

そして更に重要な事は、Bさんにとって自分の地位と名誉が何よりも大切な事を示しています。

(2) 支配型のタイプ

① 自己愛的タイプ

支配型の人は幼い時Bさんのように一人っ子であったり親や周りの人に特別に可愛がられたり褒められたりした人に比較的多いようです。またBさんの場合に見られるように本人が実際ある程度才能があったり知力があったりする場合も多いのです。しかし重要な事はこの型の人の自信や安心感は、周りの人の賞賛や追従によっていつも与えられ確認されなければならない事です。従って所謂取巻きが必要な訳です。それは幼い頃の親から始まって教師や級友・社会に出ては上司・部下などです。そればかりではなく、例えば男であればゴルフクラブやナイトクラブ、女であればPTAや社交場などでもいつも自分が中心であり全ての人の注目の的でありたいと思うのは、それが虚像であるとしても、自分のみを愛していると云って良いでしょう。

その意味でこのタイプを自己愛のタイプと行って良いでしょう。

心の中では軽蔑していても少なくとも表面的には周りの人に愛嬌良く魅力的であり寛大で親切です。従って他人も感じを良くし賞賛し魅力的な人だと思います。このタイプの人が、本当に人を愛したりまた寛大でも親切でも誠実でもない事は、周りの人がちょっとでも批判的な態度を示したり否定的な言葉を吐いたりした時に暴露されます。

② 完全主義的タイプ

支配型の人の中で知力に頼りそれを誇りとする人によくある傾向ですが、自分の知力や意志力によって自分のする事考える事を全て完全にやろうとする完全主義的な人がいます。

完全という事は、事実として人間の出来る事ではありませんが、自分の力を過信するこの傾向の人は、出来ると思い込み、また自分は完全にやっていると考えているのです。当然この思い込みや考えは「幻想」にしか過ぎませんが、この傾向の人はある程度は実際やり遂げているものですから「幻想」とは少しも思いません。一般に支配型の人は自分の力を過大視する傾向があるのですが、この完全を追求する人たちにもこの傾向がよく見られます。

完全主義タイプの人には二つの目的があります。

(a) 自分が完全無欠であるという事について誇りを持つ事(これは実は傲慢ですが、)によって無意識に自分の無力感から身を守る事。これは完全な自分の力を信ずる一種の万能感と云っても良いでしょう。

(b) それによって他人の自分に対する全面的尊敬を得る事で安心感を得る事。

この傾向の人々は、表面礼儀正しく約束は必ず守り義理堅く靴服装に至るまで身だしなみは清潔でキチンとして一点の隙もありません。言葉も丁寧で几帳面な云い方をします。品行方正で酒もタバコもやらない人が多くどこから見ても非の打ち所もない真面目な紳士であり淑女であるという感じの人です。

しかし全てに余りにきっちりし過ぎていて堅苦しく確かに尊敬するに足る人ですが冷たく親しみが持てない感じがします。

こうした事の全ては実はこの人が完全への要求を自分に対して苛酷に課した結果であるし、またそれによって他人の尊敬を要求している姿です。この姿の裏には他人に対する侮蔑感・優越感があり自分は何でもやれない事はないという傲慢な万能感が隠れている事が多いのです。特に道徳的な完全さについて傲慢な自信がありますから、他人の行為に対して自分の標準を押し付け要求します。そして他人が自分を尊敬しなかったり無視したりすると自分はいつも正しいとして他人に対して内心辛らつな批判を行い軽蔑します。

完全主義タイプの人のこうした尊大な傲岸な自信のある態度が破綻をきたしその裏に潜む無力感や弱小感を露呈し他人の助けを求める依存的な態度を取るのは、自分が予期しなかった出来事が起きて完全に自分の状況を支配出来なくなった時です。例えば、自分が計画した仕事が失敗したり自分の子供が急死したり妻が自分を裏切ったり性的に不能になったような場合です。

③ 攻撃タイプ

これまでの支配型の人は、Bさんもそうであるようにどちらかと云えば比較的恵まれた環境で幼児の時代を過ごした人が多いようです。

しかし支配型の人の中で最も野心的で強力で傲慢で攻撃的なタイプの人は、大抵恵まれない環境に育ち苛烈な状況の中で闘い成長した人に多いのです。

この人達の生活は、毎日が闘争であり相手を征服して徹底的に服従させる快感の上に成り立っている感じがします。それはまるで幼年時代から受けた仕打ちに対して復讐しているかのように見えます。全く心理的に見ても自分の周りの全ての人に対する激しい復讐の衝動で動かされていると考えられるのです。

このタイプの人も幼い頃は普通の子供のように親の暖かい愛情や保護を求め望んだ事に変わりはありません。どんな人間の成長にもそれは欠くべからざるものですから。しかしこの人達の親は粗野で乱暴であったり信頼を裏切ったり子供を馬鹿にしたり厳し過ぎたり放任したり子供に親らしい愛情を注いだり注意深く暖かく保護したりして、安心を与える事をしなかった親が多いのです。

二言目には打つ・殴る・馬鹿だの畜生だのと怒鳴られる・出て行けと云われる・酷い罰を与えられる・勝手にしろと冷たくされたりする時、子供達はどんな気持ちになるでしょうか。子供は、自分が親に憎まれ愛されない「悪い子」だと感じます。憎まれ愛されない事で一方では見捨てられた心細い不安を感じると共に他方ではそうする親に対して怒りと憎しみを感じるでしょう。子供によっては、不安を免れる為に怒りや憎しみを抑圧して親の気に入る「良い子」になるようにする子供もいます。前にも述べた所謂「依存型」の子供が取る態度です。

しかし敏感でエネルギーのある子供は、ここで親に対して愛情や保護を求める気持ちを持つ事を諦めます。親に求める気持ちや不安になる気持ちを抑圧しそうした感情を弱さとして押し殺し「どうせ悪い子と思われるなら」と開き直って「悪い子」になってやろうと決める訳です。

その代わり誰にも頼らないで自分の頭脳や体力や才能など、自分の力で強くなり優越する事で自分を迫害する全てのものを支配し復讐し見返してやろうとするのです。

こうした攻撃的な復讐の強迫的な衝動に突き動かされる時、それはその人の能力を発展させる大きなエネルギーともなります。そしてその大きなエネルギーによって仮借ない闘争を行い競争相手を征服して地位や名誉や富を獲得し他人を支配する権力を倦く事なく追求する人間になるのです。

このような人は、例え表面はどうであろうとも他人に対して非情です。口で人類愛とか愛国とか真理とか人の為とか同情とか云う場合でも、それは権力を得る為の謀略の口実であり他人は彼の征服の対象物であり野心の為の道具にしか過ぎません。

従って他人の人間としての感情・願望や要求に対して内心軽蔑しなんの配慮も払わないのです。寧ろ人間というものは本音は邪悪で悪意に満ちているもので、親切とか友情とか愛情とか誠意なんていうものは、みんな表面だけの格好良さを狙った偽善にしか過ぎないと思っています。だから他人なんか絶対信用しない事が聡明な事であり正直で偽善者でない事だと信じています。

例え相手が女性であれば愛するとか何とかは問題でなく、財産や地位など自分の野心に利用出来るものを持っているかどうかが主な問題であり、せいぜい征服の対象か性欲のはけ口としか見ていません。

非情と共にこのタイプの人を特徴付けるものは、「激しい敵意に満ちた病的な競争心」です。

前に述べた支配型の中の「自己愛タイプ」の人は、優越への衝動に動かされていたとは云え自分が賞賛され人気の的であれば満足し悦にいって他人に対して寛大ですらある場合があります。もう一つの「完全主義のタイプ」は、自分に対して厳しく他人に対しても論理的批判的な態度をとっている事が多いのです。しかし「攻撃的タイプ」の人は、徹底的に何事でも他と競争しそれに打ち勝ち征服させ「屈辱を与えなければ止まない傾向」を示します。恐らくこれは「幼少時の深い屈辱感」によるものでしょう。

この競争心は、第一にあらゆる人にあらゆる事において絶対にいつも優越した一人者でなくてはならないという無差別的な強迫的な傾向を持っている点で「病的」な事と共通しています。

そして、優越を追い求める点では支配型の他の二つのタイプと共通ですが、他を攻撃して打ち負かして「屈辱を与えるという敵意の激しさ」がこのタイプの特徴です。その意味で、このタイプは復讐的・或いは攻撃的なタイプと呼んでも良いでしょう。

どこでもいつでも誰にでも何事につけても他人に優れ他人を打ち負かさねばならないという強迫的な野心に憑かれているこのタイプの人は、ちょうど「ハリネズミ」のようです。

針ねずみは、鋭い針で相手を刺して傷付け身を守りますが、このタイプの人はいつも自分と他人を比べ自分より優れていると感じる他人に敵意を感じ、全力を傾けてこれを攻撃し屈服させなければやみません。他人に勝つのが目的ですからどんな事で勝つかという事柄の質などは問題ではありません。自分が勝ち一番にならないと耐えられないという気持ちがあるのです。

こうした気持ちに駆られて長年の間同じ態度でやって行きますと、色んな事での闘争に明け暮れて結局一生を通じてまとまった事を完成する事が出来ない場合もあります。また特定の事に集中した場合でも他人への勝利感・優越感・更に他人に屈辱を与えた快感はあっても本当に仕事をした成就感による満足はありません。これがこのタイプの宿命です。

このタイプの人は、一見強力で権威的に見えますが実は心の奥底に恐怖と不安があるのです。先にも述べたようにこのタイプの人は、全ての他人を信頼しません。それどころか万人は万人の敵であると信じています。彼にとっては他人は全て敵意に満ちている存在です。これは彼自身の敵意の投影であると共に幼児期の酷しい体験の結果でもあるでしょう。敵意に満ちている他人に取りまかれて自分自身の復讐の気持ちを他人に投影すれば他人が自分の行った攻撃的行為に対していつ復讐するかも知れないという不安と恐怖を感じる事も当然でしょう。この意味でも本当の安心感はない訳です。

また彼の心の深い奥には、人の愛情を求めて止まない気持ちもあるのです。これを常に「弱さ」として彼が否定し続けているのですが、それにも関わらず存在しているのです。この事は私たちが彼の幼時を振り返って彼の力による支配と復讐が実は人の愛情を得られずそれに絶望した事から発している事を知れば理解出来るでしょう。彼はこの絶望から止むを得ず自分を力による支配と復讐の衝動の奴隷として来ているのです。彼の非情と苛酷さの隙間から求めて得られなかった愛情への願いが聞こえて来るのです。

この願いがある事は、彼の嫉妬と羨望に現れています。勿論彼はこの羨望と嫉妬を相手に対する敵意に変え、相手の幸福な状態を破壊する事に夢中になるのですが、その敵意の激しさの中に逆に愛情に対する強い枯渇を見る事が出来ます。――「彼の心の中の敵意と愛情の矛盾する葛藤」――これは、彼の心を不安定にし彼が安心感を得られない理由の一つになるのです。

また一見自分の優越を信じ自分の力を確信しているように見えますが、実は深い心の底に自分は愛されない・愛される価値がないという自分の価値に対する低い評価―自分についての卑小感―があるのです。これも彼が自分を悪い子と評価されその悪い子である事に反抗的に居直った事―愛されないならせめて怖がられる強い人間になろうとした事―と関係があるのです。

彼の心の底は、自分は悪い子であるという感じが横たわっている訳です。ですから表面の優越感と底に在る卑小感との間に抑圧はされたが解決されていない矛盾を孕んだ葛藤があるのです。これは特に事柄が自分の価値に関するものですから葛藤は深い不安となる訳です。ここにもこのタイプの人が安心感を持てない理由の一つがあります。

このように見て来ますと、支配型の中でも最も強力で徹底的な態度と見られる復讐的・攻撃的方法を取るタイプも、安全感を得ようとして取った方法であるにも関わらずこれまた本当に安心を得る方法でない事が明らかです。いや、かえって大きな不安をはらんだ状態を維持する結果となっています。その意味で人間の成長を妨げ真の安心感を与えない神経症的方法である訳です。

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