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Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 5

Interview with Dr. A. Kondo (1998/6/13) 5


・・理性で、refineすることができなくなるんですね。いわば、計算でしょう。計算というのは理性的なものでしょう。利益追求ということを目的にしているけれども、それをやるのは極めて理性的な冷徹な考え方じゃないとできないでしょう。商売で歌なんか詠んでいられませんからね。簡単に云えばそういうことですよ。そういうわけであの、感情のコントロールですな、それ、どうするか。感情がもう執着、執着の方に働いている。Attaching、非常に強くなっている。だからあの、感情の結果として、その欲求ですね。感情っていうのは非常に欲情って云って情欲や業、そういうものが動くわけですよね。でまあ、なんというかそういうものをどうしていっていいかわからないんでしょう。その時に感情というものの抑制を何でしたかというと、たとえばさっきの怒りという感情が出た時に、じっと待っていられる。いう風なことで、こういう、事実的なそういう、その待つという行動ですね。wait and seet。そういうところを云っているでしょう。それが一つ行動ですね。自分自身のこの、なんというかな、現実にですね、あの、それを感情的に取らない。そういうことに束縛されないで、居る状態というものを問題にしていますね。で、たとえば恐いけれどもどうする。最初の僕が云った、「恐怖突入」というところでも、恐いけれどもとにかくやらなきゃいけないからやろう、と。こういう風なことは行動的なものですよね。そんなところから行動主義と似ていると云われちゃうんですけども、しかし行動主義とは目的が違いますよね、はい。そういうところがやっぱりね、日本の特徴ですね。でまあ、むしろですからHorneyの場合には、感情っていうものをもっと尊重しなくちゃいけない、という形になって、それは、intellectualismの横行している、それが強力な・・である西洋の文化には必要ですね。そちらは感情が非常にこうuncontrolっていうか、コントロールされていないという状態というのを何とかしようというわけですね。そこいらが違いますね。しかも感情の変成を認めながら、その感情がその、こういう風にこう高まっては沈んで行く、けして永遠に続くものじゃない、怒りがね。そういうものをちゃんと見越した上での、realismですね。そういう現実をちゃんと見て捉えているでしょう。まあHorneyの場合でも、人間の感情っていうものが現実なんだ、と。それをちゃんとrespectしなきゃいかん、と、こういうことを云っているわけですね。だからその点では同じ。感情に対しての尊重、respect、しているわけですね。

(質問者)次の質問ですけれども、これがまた今仰ったこととオーバーラップしていると思いますが、それはですね、森田療法の本質とは何か、と。たとえば、行動、作業を主体にした入院療法が治療構造でもって森田の本質とするのか、あるいは森田療法の様子といいますか、人間性に対する見解の根底にあるものが森田療法のエッセンスである、と。

そうね、それはね、僕はね、相互に通じているものじゃないかと思うんですよね。えーっもちろんそのね、森田がね、やっぱりね、これHorneyも同じことですけども、理論を発展させたのはやっぱりね、治療的な研究からだと思うんです。現実において、まあ患者をね、見た結果として理論が発展して行ったと思うんです。だから、森田のその何というかな、色々な考え方というのは、それもまた治療構造に基づいてどうしたらそういう自分の考え方が現実化するかということで、あの、現実にできるかということで、やったのがそれができる方法としての治療構造だと思いますね。で、だから、その両方に通じてなんですよ。だからどっちかとはいえないと思うんですよね。ただね、わかりやすいのは治療構造の方が、アプローチとしてはわかりやすいんじゃないかと思いますね。ね。あの、最初から理論というとね、これあの、抽象的だし、だから、ただ・・と云ってもこれ噛み合わないと思うんですよね。やっぱりそこで東西というか、西洋と日本のようにディスカッションする場合がある。むしろ患者のリアリティというか、そういうものを中心にしてあの、therapeuticなものから共通なものを見出して行くディスカッションができるんじゃないかと思いますけどね。

(質問者)森田療法を長くやってきた先生の中には、入院治療、あるいはしっかりした治療構造で森田的な段階を踏まえたやり方でないと本当の森田ではない、と。他の森田は、薄く薄められた弱い森田だ、非森田だ、という話がありますね。ところが最近は私も含めてですが、外来でいろんなものを入れて、カウンセリング的になって、その中に森田を入れる。あるいは森田というものが、治療のテクニックの中でディスカッションを通しながら、森田の根本的なことから方針を出して行く。

それはね、僕はね、あの、まず第一にね、あんなその、現行ですね、それはね、一つ一つ意味はあります。だから本来の現行、本来の森田療法のオーソドックスなものがどうかといえば、まさにtherapeuticに云えば、1.2.3.4.のね、四期を通してね、そういうものが本格的なものだと思うんです。けれども、色々なことがありますね。段々、たとえば、あのためにはしょっちゅうまあ、患者とですね、あれだ、一つの同じ病院といいますか、何といいますかね、入るでしょう。それでその中で暮らすわけですね。そのことが中々できないでしょう、状態としてね。クリニックではできませんね。できないことをやろうとするでしょう。そうするとどういうことになるかというと、結果的にいえば、四つの段階をろくろくやれないでしょう。そこで僕はそういう議論に一番進呈するのはどういうことかというとね、簡単にいえば、それをやってみて、いいですか、理論という森田の考え方でカウンセリング的にやるとか、あるいは、そういうことで僕もやっていますからわかるんですよ。そういうことをやってね、うまく行く場合とうまくいかない場合が出てくると思うんですよ。はい。限界があると思うんです。それをはっきりとね、見ることが必要だと思うんです。で、それでもってね、ちゃんとトライして、それを森田流に考えるとやってみて、成功すればそれでいいです。ただし、そうでない場合に、そういう今のオーソドックスなことをやっている人がいればですよ、その中に入って、患者が入ってやってみるのが必要ですね。そういう方もいれば、本来の。しかし現実においてはそうやっている人が少なくなっている。だから森田療法はいわばある程度、そういうのもやれば、たとえばある程度の容器でやる人もいれば、それからいわゆる、普通のクリニックでやるような簡単な、簡単というか、とにかく、割合その森田の考え方というのは日本的な人間にとっては楽ですから。日本人にとって、わかりやすいから。・・(つづく)

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