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音楽とのかかわり方が変わった話。

音楽をすることにまつわる、とりとめもない話。

クラリネットを吹きはじめて、かれこれ13年になる。楽器が好きなだけ一本で13年過ごしてきたわけではない気がするし、練習をとてもしている時期ととてもしていない時期とのむらがあるけれど、わたしの人生の中で大事なもののかなりの部分を音楽が作ってくれていると思う。それがわかっているから、なんとしてもやめたくない。だからこそ、フルパワーで演奏している時もそうでない時も、人間としてどう音楽にかかわっているかはいつでもわたしの中で大切な問題だ。そして、わたしにとってのかかわり方の大きな転換のきっかけは、ジャズをはじめたことにあった。

ジャズをはじめる前は、吹奏楽をやっていた。その頃はその頃で、クラシック寄りの文脈でたいへん頑張って楽器を練習していた。出来ないところを練習して、苦手なところを克服して、ダメなところを矯正して、下手じゃなくなるように。プロのサンプル演奏と自分の録音を比較して、違いを書き出して、ひとつひとつ潰していくように。そうして真っ当な楽器の練習をしているうちに、自分がどんどん減点法で練習をし、減点法で音楽を聴くようになっていることに気づいた。自分に対しても他人に対しても、「〇〇の部分がたりてないから直さなきゃ」「好きでやってるはずなんだから、もっと〇〇するべきだ」というプレッシャーをかけるようになり、それをどんどん突き詰めようとした。目的意識を持ったムダのない練習と、練習の成果を100%発揮する演奏。他人に求めるのだから、自分にはもっと高いレベルで求めないと、と思い、ますます首を締めていった。

そんなふうに頑張って、必死の音楽をやっていて、確実に成長は感じつつも、この気持ちが一瞬にして瓦解してしまう瞬間が来るんじゃないか、という予感がよぎるようになっていた。自分が今のまま練習していっても、ペケを少しずつ減らして1歩ずつ進んでいくことはできるのかもしれない。でも、今のままのメンタルでいては早晩、100点を出せるわけでもプロになるわけでもないわたしが楽器をつづける意味を見つけ出せなくなってしまうのではないだろうか。

上に書いたようなメンタルは、音楽ジャンルや形態に起因するものではないと考えている。吹奏楽だろうがクラシックだろうが、聴いていて目が醒めるような素晴らしい演奏をされる方々の音楽は、ミスがないとかピッチが合ってるとか、そんなものは超えたところにあることはなんとなくわかっていた。逆に、減点法で見たらへたっぴな音楽のなかにも心底うごかされる瞬間があるのにだって気付いていた。でも、そんな中で自分が出来ることは、見つけたペケを手当たり次第に直していくことぐらいだろう、と道を狭めてしまっていた。こんな心でいて本当にわたしは音楽に近づいているのだろうか?という疑念を拭えず、”べき”に縛られるぐらいなら楽器なんて辞めてしまえ!と思って別の道を歩こうとしたこともあった。でも、やっぱりクラリネットからは離れられずふらふらしていたところで、コンボジャズに流れ着き、それが変わるきっかけとなった。

大学で流れ着いたジャズ研は、当時のわたしにとってとても恵まれた環境だった。メンバーが少なく、もちろんクラリネットなんかいなくて、どう練習していけば良いかも、そもそもどうなりたいかも、簡単にはわからない環境だったのだ。プロのCDを聴こうにも、はじめはコンボジャズのクラリネット奏者なんて居ないと思っていた(横暴)し、他の楽器についても音の出し方からサウンドの組み立て方から今まで知っていた音楽と違いすぎてなかなか理解が追いつかなかった。そこでは、楽器も背景もキャリアもバラバラな人たちが、「これ楽しいかも?」の欠片をひっつかんでなんとか皆に展開しようとしていた。それまでの吹奏楽をしていた環境に比べたらかなり混沌としていて、”べき”に縛られるどころか、それを見つけ出すことにもなかなか辿り着かないような状態だった。この場では、今まで使っていた減点法で音楽を聴いていては何も成立しない。でもそのことは、わたしに今までとは違う音楽との向き合い方を与えてくれた。

正しいやり方は全然わからなかったけれど、演奏で会話をするようなジャムセッションはとても刺激的だった。片言程度にしか話せなくても、一緒に音を出している相手の言いたいことを聞き取れて、自分の言いたいことを伝えられたときの喜びはじゅうぶんに感じられた。会話に決まった雛形があるわけではないのと同様に、そこには「こう演奏するべき」みたいな雛形は存在しない。だからこそ、相手から聞こえたことを信用して、言いたいことに忠実に音楽全体と向き合うしかなかった。相手の言いたいことを掴む段では、なるべく全体をあびるように聴く。話には流れがあるはずだから、可能な限り瞬間ではなく流れを捉える。このときおそらく相手の意図の外で起こっている”減点要素”は聞きとる必要がないと感じられた。

このような会話、もといセッションを繰り返しているうちに、「言いたいこと」、つまりそのミュージシャンや音楽の持つ意思をとらえようと音楽に向き合うようになった。相手の言いたいことは相手からしか出てこないように、自分が言いたいことはクオリティに関わらず自分からしか出てこない。だからこそ自分にとっては「自分が音楽を続け、表現する意味」があるし、それをやり続けたいと思っても良いかもしれない、と思えるようになった。カオスから秩序を見つけ出すには今も至っていないが、秩序ではないけどかかわる上で頼りにできる柱のようなものを、そのときにジャズをはじめたことがきっかけで掴むことができたのかもしれない。

続けたいと言いつつ、人前で演奏ができない日々が続いている。仕事に忙殺されて……とかでもなくこんな形で演奏機会がなくなっていくとは夢にも思っていなかった。何をもって楽器を・音楽を続けているというかはこのご時世さらに曖昧だけど、どんなに吹かない期間があってもまだやる気持ちでいるなら続けていると思うことにしている。今の自分のかかわり方はもちろん諸刃の剣でよくない面もあり、もっとストイックに練習を積んだり十分に気をつけた上でちゃんと演奏機会をとっていったりする道もあるかもしれない。でも、わたしにとって、好きなことを長く好きでいることができ、その期間ぶんだけ新たな好きなことに出会える経験は、間違いなくわたしの人生をつくってくれている気がする。

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