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情動型質感制作について

こんにちは。メイテイです。

Intro: この記事について

僕はデジタルメディアの分野で創作を経験してきました。実務経験はまだ浅いものが多いですが、そのジャンルは多岐にわたっています。具体例を挙げると、デザインから始まり、Webサイトを経由して、音楽のミックスを行い、それから動画編集も行ってきました。

多すぎて自分でもわけわからなくなってきました。数は自慢にはならないと考えていますが、とにかく、まとまりなく様々なことに手を出してきて、すべてに共通した最大公約数のようなものがなんとなく分かる、と考えていただければよいと感じています。

筋の通った創作の専門家、その道のプロフェッショナルには知見で敵いませんが、コード書きで言う開発者体験(あえて書くなら創作者体験でしょうか)には著しい理解があります。仕事で求められているものをつくる難しさ、依頼の曖昧さによる動くに動けなさ、自分が何をつくりたいのか分からなくなってしまうスランプなどなど。

この記事では、それぞれの創作で共通した制作技法について、メイテイが感じていることについてまとめます。

論理型蓄積制作と情動型質感制作

まず、メイテイが勝手に作った二つの造語について書いておきます。一つ目は、「論理型蓄積制作」について。

論理型蓄積制作は、いわゆる「センス」による制作です。


センス、とパッと聞いてしまうと、言葉が持つ意味とは真逆に、まるで才能が必要な天性のものと錯覚してしまうかもしれません。
「あの人は音楽のセンスがある」と聞けば、「あの人は音楽の才能がある」と同義な気がしてきます。

でもそうではありません。センスには裏付けがあり、確固たる根拠があります。共通理解があり、創作者だろうと消費者だろうと関係ありません。創作者の努力によって、センス良く見せる方法を研究し、コントロールされています。
例えるなら司書のようなものです。図書館にある膨大な本のデータをあらかた蓄積しておき、その中で場面に応じた最適解を提案します。そこにあるのは才能ではなく、とてつもない情報を整理整頓し管理する能力、すなわちセンスです。

ここで重要なことは、すべてのデータを一字一句完璧に覚えておく必要はない、ということです。物語で言えば、細かなシーンにある台詞回しではなく、粗筋だけ覚えておけばよいと考えてみてください。

司書の話に戻すと、「泣ける小説が読みたい」と問い合わせがあれば、過去に読んだことがある、また内容について知っている本を紹介しようとすると思います。聞いてきた人の年代や性別、タイプによって、現代文学が適しているのか、古典文学か、著名なものがいいのか、はたまた無名なものか、選択肢を変えていきます。

おじいちゃんに向かって児童文学を紹介するのは、論理的に考えれば適していません。いくら泣けるとはいっても、比較的読み応えがあるものを求めていそうです。しかし「孫に読み聞かせたい」と言われれば、むしろ児童文学が適してくるでしょう。そして適しているものが紹介できると「あの司書の紹介する本はセンスがいい」となるわけです。

創作に置き換えてみましょう。センスの良い音楽を作るにあたっては、一貫してマイナーなジャンルだと、論理的には役不足です。重々しいギターがメインのヘビーメタルや変拍子のジャズではなく、長調のポップスロックや、メロディックなハウスミュージックが良さそうです。もちろん、これもシチュエーションによって変わってきます。子供向けの教育番組で流すならポップスがいいかもしれませんが、深夜にやる音楽紹介番組の冒頭には役不足です。
いわゆるクリエイティブのお仕事として請負うとき、この感覚は大切です。要件を満たしながら必要以上のことはしない、非サービス精神が経済的な価値を生み出します。

僕の個人的な経験としては、安請け負いしてしまった時期があります。相場感覚が分からず、安くても実績がある方がいいだろうと考えていました。
19歳のときにコンセプトバーで働いていて、日給2000円で配信したりレコーディングしたりしてました。あれはあまりにも良くなかったです。
可能な限り神経を尖らせ、出来うる限りのサービスをして、金額以上の仕事をしよう、と考えてました。ロックだとか清貧だとか美化する言葉はいくらでも出てきますが、それは仕事ではなくボランティアです。割り切ってボランティアをすることもときには必要ですが、仕事として行うときにはそんな美学は排除した方がいいです。

次に、

情動型質感制作について。


これは自然言語で説明するのは難しいですが、一言で表すなら、降ってくるとでも言えばいいでしょうか。
己が心の赴くまま、閃いたままの形を、なるべく正確にデッサンするのが情動型質感制作です。

人間は自分の脳みそで考えているはずなので、知識や経験からアイデアが降ってきていると推測できます。ただし情動型質感制作では、どの知識を参照しているか説明できません。衝動はある日突然やってきます。まるで誰かの操り人形になったかのように、せざるを得ない心持ちになってしまうのです。
自分の中でだけ納得していて、言葉に翻訳するまで至っていません。だから蓄積ではなく、質感、ニュアンスを使っています。芸術やアートと呼ばれるものは完全にこちら側で、受け手にも質感による受容を要求します。

音楽で言うなら、新しい音源を試したくて歌詞のない環境音楽を作るように、小説で言うならひたすら主人公が鬱屈とする物語を書くように。開発で言うなら、完璧に思える設計を思いついて試さずにはいられないように。
しかし、運良くこれが仕上がったところで、多くの受け手は分からないと手放します。それどころか、文脈がなく面白さが用意されていない作品には触れようとも思いません。

これは金になりません。もし情動型質感制作でなにかを作り、自信があって世の中に広めたいと考えるのなら、ほかの誰でもない自分からプロモーションしないといけません。プロモーションには色々とありますが、簡単なのは金を使う方法です。広告を出せばいいのです。
つまりこの方法では、金を得るというより、むしろ金がかかります。世知辛いのかもしれません。

とは言え、冷静に考えてみると、自分勝手に作ったものに経済的な価値がないのは当然のことです。月面にコンビニを建てようとしても、誰も住んでいないので需要がありません。金を出しても元がとれません。
ただでさえ自分の時間を、寿命と人生の一部を捧げるのに、経済的にも報酬がないとなると、一体なんのために創作するのでしょうか。

一方で、作品の価値は経済的なものさしだけでは計れません。著作権の切れた小説がいまだに残り、後世に影響を与えている例は無数にあります。日本だけではなく、世界中で。

並べてみると、ようやく実態が見えてきます。情動型質感制作は、他でもない自分のためにするのです。作りたいから作る、それだけのために。
世の中とかどうでもいい、売れないものでもつくれたからそれでいい。思いついたことをしないと気持ちわるいから。
そんな、まったく社会に貢献しない行為が情動型質感制作です。衝動的に行うので、これだけでは長続きしません。自分が飽きるのが早いか、世の中がついてくるのが早いか、チキンレースでしかありません。

ですが、創作者はこの感性を失うことはできません。情動型質感制作をしなくなった創作者は、たちまち干からびていきます。張り合いがなくなります。
創作はライフワークであり、生業です。週末にアーキテクチャのことをまったく考えないエンジニアは仕事に楽しみを見出すのはむずかしいでしょうし、編集者から連絡が来ないと書けない作家は、そもそもデビューできません。
自分から書けない人間は作家として説得力に欠けています。ましてや、作品を書いたことのない人に払われる金はどこにもありません。

だから、

論理型蓄積制作と、情動型質感制作は両方とも必要です。どちらか片方が欠けても創作を続けることは難しく、長い長いスランプに陥ることになります。自分から創作に手を出したくなくなっている時は情動型質感制作が不足しているのでしょうし、金にならなくて困っているなら論理型蓄積制作が不足しています。
各々で最適なバランスを見つけて、自分の調子が良くなるように調整してみてください。

Outro: 個人的な話

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