見出し画像

映画を見て感じた「絶望感」と「諦め」から教えてもらったこと

「花束みたいな恋をした」という映画を見た。
2つの感情が湧いてきた。
一つは「お金のためだけにやりたくもない仕事をするのが嫌だ」という気持ち。
もう一つは「だから恋愛なんてしたくないんだ」という気持ち。

映画をみたあとの感想はみんな異なるだろう。
今回この感情に出会い、私の心が投影されているように感じた。


私は、いのちはいつだって最善で完璧なシナリオを描いてくる。
と思っている。
でも、こうゆう状況だけにはなりたくないと思っていることがこの映画に描かれていた。
一つ目の「お金のためだけにやりたくもない仕事をするのが嫌だ」という気持ちを抱かせる描写だ。

主人公がイラストを書く仕事を諦め、なかなか決まらない就職活動を経て、就職するのである。やりたくない仕事を一生懸命毎日頑張っている。それは生活のために。すると自然と感情を失っていく描写があった。でもこの状況から逃げることもできない。ここで働くという選択肢しかないのだ。

この描写が痛いほど伝わってくるのである。気持ちが分かりすぎて痛い。

これは4年前の私だ。

どうすることもできず休みの日にSNSを見ると、「自分らしく」とか言っている連中がいる。嫌気がさした。なにが自分らしくだ。そんなきれいごとを言うな。社会はそんなに甘くないし、きれいごとでお金なんか稼げるわけがない。と当時思っていた自分が蘇ってきた。そうやって諦めるしかない。まだ続いていくであろう人生に絶望してた頃だ。夢を抱いて社会に飛び出した頃のキラキラした目はもうなかったように思う。
そんな自分が重なってしまった。あの頃には戻りたくない。あの絶望感をもう一度味わいたくない。どこかでそれが再生しないようにこの4年頑張ってきたんだと思った。頑張らないとまたあの絶望に出会ってしまう。
まだここにも感じたくない感情があったのかと気づいた。
この映画を見終えて、何かに駆られる自分を感じた。今月はどれくらい仕事が入っていただろうか。今月の収入はいくらだろうか。と無意識に考えていた。
もし「絶望感」を感じてもいい。と許せるなら、「本当はどうしたいのか」
と問うてみると、やはり絶望を味わうのには抵抗がある。
でもなんとなくだけど、今とは違う生き方になりそうだ。
そんな小さな芽にもなってない感覚が疼いているのが伝わってくる。

そしてもう一つの気持ち。
「だから恋愛なんてしたくないんだ」という諦めのような気持ち。
一つ目の気持ちだけでも十分なのに、どうして同時に押し寄せてくるのだろう。
この映画では終電を逃した二人がたまたま出会い、趣味やお互いが持つ世界観に意気投合し、付き合い始める。まさに王道ラブストーリーのはじまりのような描き方だ。
ただ序盤から私が感じていたのは、はじまりはおわりに向かっていくことであり、この2人の関係性がいつまで続くかなんて容易に想像ができた。

だから嫌なんだ。

家族以上に親密な関係性になり、精神的にも肉体的にも許しあった仲の2人がある日突然他人になるのだ。何事もなかったように話さなくなり、会わなくなる。その人が世界から消える。そんなことなら出会わない方がましだとさえ思ってしまう。

またどうせいなくなる。

この乾いた諦めのような感覚がずっと再生されるのである。
だから親友って言葉は嫌いだし、必要以上に仲良くなることも避けたい。
彼氏なんて作った際にはいつか終わることを想像し、それが来た時のために予想範囲内の出来事としてイメトレだってする。

そんな世界の中で生きてきた。
今も気づかなければ、その世界にどっぷり浸り、なんてかわいそうな私だろうと悲劇のヒロインぶることもある。

でも私は気づいている。
本当は誰かを思いっきり愛したいし、大好きになりたい。
本当は真実から受け入れられ、理解し合える関係性でありたい。
そして関係性は切れるものでもなく、壊れるものでもない。
つながりの質感が変わるだけなのだ。

この映画からいのちの願いを思い出させてもらったんだと気づいた。

「残りの人生、何にいのちを使ったらいいのか」とよく思うことがある。
映画を通して感じた絶望感と諦め。
この2つが教えてくれたような気がした。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?