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WEB版「じょーど」始動 #2

こんばんは。じょーどの赤坂です。

じょーど蛙

前回に続き、法然上人鑽仰会との出会いを書いていきたいと思います。
なかば在家出身(叔母がお寺の住職)の私は、自ら選んでこの仏門の世界に入ったわけですが、表面的な仏教の教えは理解できても、その実、僧侶としての理想と現実の違いに、挫折を経験しました。

法然上人鑽仰会の創設者との出会い

月間「浄土」と私(後編)
 前号では聊か自分のことを話過ぎたので、次は真野正順・中村辨康両先生と「浄土」の話をしたい。
 ハリボテだった私の信仰に沁み入る言葉をかけてくれたのが辨康先生である。当時、近代浄土教研究の一環として所持していた「浄土念佛読本」(昭和11年)を読み返す中、辨康先生が寄稿した「生」は信仰とは何たるかを私に問いかけてきた。本来、浄土教人の信仰は念仏一行の中に育てられていくものだが、阿弥陀仏と私の間にはいつも霞がかかっているようだった。それから鑽仰会から出版された辨康先生の著書を読み耽った。また自然と鑽仰会創設者の正順先生の言葉を求めるようになった。
 鑽仰会が結成された昭和10年は、今より遥かに困難な時代であるが、私達が生きる令和の時代もまた、誰かが何かと戦っているように思えてならない。私が両先生から得たものは、真実の明るさを求めて悩み悩んで生き抜いていくことが信仰であり、実感するものということである。
 近年「浄土」は創刊号からネット公開されるようになった。ただ残酷なことに読まれなければ意味はない。若輩者ではあるが「浄土」が好きな一人として言いたい。
 きたれ、光の中に!
 悩めるものにこそ信仰雑誌「浄土」は必要であるということを!
                 赤坂明翔(福島・桑折 無能寺徒弟)

仏教とは真実の道を求めること


「仏教の教えを聞いて、悩みがスッと消えました!!」

それも仏教の素晴らしい一面です。

ただ私が今、思うことは「悩み悩んで生き抜いていくこと」それ自体が仏教であり、信仰だということです。浄土宗僧侶で共生(ともいき)を提唱した椎尾辨匡(1876~1971)という方は、

「共生ってなんか宗教っぽくないけど、加持祈祷や新興宗教のような宗教「らしい」ことを離れて、信仰に生きて人間として本当の生活することが、逆に本当の宗教なんだよー」(筆者超意訳)

って言いました。仏教は決して派手なものでも、すぐに答えを教えてくれる便利なものでもありません。「悩み悩んで生き抜いていく”力”を与えてくれるもの」。お坊さんと一緒に悩んで、仏さまの浄土へと続く真実の道(人間として本当に生きる道)を求める中に、「貧者の一灯」のような確かな幸せがあるように思います。


次回は「崖っぷち?法然上人鑽仰会と編集長」をお送りします。

ではまた。共生合掌。

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