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1995年のバックパッカー25 ネパール3 カトマンドゥ3 仏教、ヒンドゥー教、象の背中、そしてレモンチーズパイ。

カトマンドゥに来て2度目の土曜日が訪れた。ネパールでは土曜日は休日だ。これは彼らが昔から使っているビクラム暦に従って暮らしているからだ。誕生日もビクラム暦で覚えているので、西暦に換算するのがネパール人にはややこしいらしい。

土曜日は、観光施設や銀行なども閉まってしまうので、旅行者もそのへんでぶらぶらして過ごすことになる。雨季だというのに、その日も晴天だった。

ヒマラヤキッチンで朝食をしていると、ドイッツェホームという別のゲストハウスに滞在している日本人の山本君とばったり遭遇。今日はこれからマーケットにでかけると彼が言うので、僕も同行することにする。ちょうどルンギが欲しいなと思っていた所だった。


ルンギというのはネパールの男たちが腰に巻いて着ている布で、スカートのように見える。庶民の服であり、老人から若い人までが着ている日常着だ。湿気の高いネパールでは通気性が良く、理にかなっている。元々服が好きで、さらに民族衣装が好きな僕は、それらを見るだけでなく、実際現地で着てみたいと常々考えていた。

インドラチョークでまずひとつ見つけ、ブリクティマンダップ公園で開催されていたローカル向けのマーケットにも行った。雑草の生い茂る敷地の中を進むと、ビニールシートを使って簡易的なテント屋根を作り、その下で様々な品が売られていた。マーケット自体は結構な規模で、小さなサーカスまであった。

休日のせいか地元の人で混んでいて、日本で言えばショッピングモールで家族と過ごす週末といった感じだろうか。とにかく賑わっていた。僕と山本君はそれぞれ目当てのものを買い、なかなかいい暇つぶしとなった。



公園内の池では、ゴムボートに20人くらいが無理矢理乗り込んでいて転覆しそうになっているのだが、それでも誰も下りずに乗り続けている。それを僕と山本君は不思議なものでも見るかのように眺めていた。こういう小さな場面にも国民性というのが現れているように思えた。ネパールの人たちは心配よりも楽しさを優先させる楽天的な人々なのかもしれない。

タメル地区に戻ると、すでに行きつけになっていたスザンナカフェでバナナケーキを食べた。

夕方屋上に出ると、北東遠くにチョモランマの頂が見えた。チベット横断の時には見逃していたチョモランマ。ほんの数分で雲に隠れてしまったが、十分に感動した。

カトマンドゥ9日目は、オートバイを借りて、巨大な仏塔であるボダナートへ行った。高さが40メートル近くもあるネパール最大の仏塔である。白亜のその建造物は、大きさが崇敬の念を抱かせることを改めて教えてくれるのだが、大きさゆえのハッタリ感も生まれてしまうとも感じた。僕の個人的な好みでは、掃除と手入れの行き届いた、程よい大きさで小気味よく凛とひきしまった宗教建築に、より惹かれる。

その後はパシュパティナートへ行った。
こちらはネパール最大のヒンドゥー教寺院である。ネパールはお釈迦さまの生誕地なので、なんとなく仏教のイメージが強いが、かつてはヒンドゥー教を国教としていた時代もあった。その当時は国で一番の聖地であっただろうし、今も最高の聖地のひとつとして大切にされている。

あいにくパシュパティナート内部へは、ヒンドゥー教徒以外は立ち入れなかった。ただバグマティ川のほとりにある火葬場は誰でも自由に見学できた。ちょうど僕が訪れた時には、一つの火葬台の上で葬儀が行われている最中だった。

火勢は強く、その炎の中にご遺体のシルエットが時々見えた。僕の感想は、ああご遺体が燃えている、という写実のみだった。いわゆる命の儚さや厳粛さなどへと意識や思考がめぐることもなく、それは無感動というわけでもなく、心は揺さぶられているのだが、言語化への意思が立ち上がらず、ただ漠然と見ることしかできなかった、ということだろう。

ネパールにもインドのように身分制度があって、上流の寺院に近い火葬場ほど、身分が高い者に当てられているとのことだった。僕は、死後も身分が残るのは変だなと思ったが、ヒンドゥ教では、そういうものとして信じられているのだろうとするよりなかった。

死後の灰が流される川では、女たちが髪を洗い、子供が泳いでいる。水牛が水浴びしている。よく言われることだが、生死が混然となっている様子は、この世の混沌そのものだ。そういうふうに世の中は出来ている。それがこの場所では可視化されて目撃できる、それだけのことだった。僕はその辺りの出店でマラという数珠のネックレスを買った。


2つの聖地を後にすると、僕は現世の俗な遊びに興じようと、ゴカルナ森でのエレェファント・ライドをしてみた。文字通り象さんに乗るだけの遊びである。これまで生きて来て象に乗ったことはなかった。それだけを経験するために出かけた。

大学生の頃に習っていたので、僕には乗馬の心得があった。なので馬との違いも楽しみにしていた。結果、象に乗るのは退屈なものであった。それは自分で操作できずに、ただ高い所に座ってまったり揺られて、ゆっくり動くだけのことだった。

馬のアクセルは胴腹を踵で押すことで得られるのだが、象の場合は耳の裏を蹴ることだった。街にいては得難い貴重な知識だったが、使うことはなさそうだ。象が歩くことから何かに気を逸らした時用の象使いの戒めの掛け声が日本語の「あるけ!」に聞こえたのは面白かった。意味も場面もまさにドンピシャなのもすごい。

さらに驚かされたのだ、歩け!と言う時に、象の首に跨った象使いは、手にした鉄棒で象の額を思い切り上方から叩きつけるのだった。これにはびっくりしたが、彼らの伝統であり、こうでもしないと言うことを聞かないだろうことはすぐに理解できた。それにしたも、万が一象さんが逆ギレしたらどうするつもりなのか。

そんなこんなで、その日は密度の高い観光デーであった。

締めは、タメル地区に戻ってからのカツ丼と、スザンナのレモンチーズパイだった。放っておくと僕はカトマンドゥで毎日スイーツを食べているのだった。


翌日は、レンタル自転車でタイの大使館へ。結構遠かったが到着して移転の事実を知った。仕方なく新しい場所へと向かう。ようやく到着し、ビザを申請しようとするも、95年の2月から、つまり半年ほど前からビザは不要になったと知らされた。インターネットのない時代はこういうことは普通に起こっていた。

とはいえ、ビザ代が浮いたのは良かった。節約しててもビザ代は支払うしかなく、低予算旅の家計簿の中では高額の支出であった。

ビザを待つ必要がなくなったので、カトマンドゥ出発を明後日に早めることにした。チケットも無事変更できた。

その後は、カフェで知り合いになっていたハワイ在住のアメリカ人の男に誘われて彼の工房を訪れた。その室内には、乾燥させたハッパが積まれていた。山のようにである。聞けば、彼は郊外で自家栽培しているとのことだった。種があるけど質はまあまあ、普段使いには十分だよ、とは彼の言葉。乾燥はドライヤーよりも、やはり天日がいい、香りが違ってくる、と彼は聞いてもいないのに、次々と解説を続けるのだった。僕はそれを厭わずにふむふむと聞いていた。まるで自家栽培ワークショップのように彼は伝えることを楽しんでいるようだった。元教師かもしれないなと思うくらいに、流れるような解説だった。


僕はネパール、カトマンドゥで日本人の旅人から「沈没」という言葉を度々聞いた。まるで沈没した船のように、カトマンドゥなど一つの場所に居り浸ることをいう。

カトマンドゥは物価も安く、治安も比較的良い、そして好む者にはハッパもあるし、食べ物もまあまあ美味しい。なので、東西南北からこの地にやって来たトラベラーは気づくとビザが切れるまで数ヶ月もネパールを徘徊することになりがちなのだった。

ただ、僕はそのつもりはなかった。とにかく次へ、そして世界をぐるりとひとまず巡ることを課していたからだ。僕はまったりするよりも、この星のあらましをまず見物したいという好奇心の方が断然強かったのだ。そして、次の目的地もトラベラーの間では一大沈没地であるタイのバンコクであった。


カトマンドウ最終日は、朝から原稿書きに費やした。その頃の僕は、旅をしながら、それをトラベルライティングに落とし込もうと試みていた。だが、旅のまっただ中にいて、それを書くと言うのは想像以上にうまくできなかった。

日々の出来事と僕自身が一体化していて、書くために必要な最低限の俯瞰ができずにいた。ならば一切の客観視を捨てて、とことん当事者として生々しく書き記せばいいと考えもしたが、どうしてもうまく書けずに、旅の最中の現実とは違う何かが生まれてしまうのだった。しっくりこないのだった。
僕は書かれたものと現実の様子が異質なことをどうにか解消しようと何度も何度も書き直しては捨てていた。そして自分の力量では、この旅を同時に書いていくことは無理だと悟り始めていた。あの沢木耕太郎さんでさえも、旅を終えてかなりの年月を経て「深夜特急」を書いているのだ。まあ、沢木さんの場合は、多忙のため後回しになったのだろうけれど。

所詮、たったひとつの短い記事さえ世に出したことのない僕が、旅をしながら書くというのは、実はかなり無謀だったのかもしれない。

だが、タイへと出発する前日も、僕はトライだけは続けようとしていたのだ。そしてどうにもうまくいかなくなると、部屋を出て外を歩いた。その日の午後も、僕は街に出て、古本屋でタイのガイドブックを買った。大きな街では古本のガイドブックが手に入った。現地の物価からすると、洋書のロンリープラネットは高価であったが、ガイドというよりも英語を学ぶための本としての価値も僕は感じていたので、躊躇せずに買った。そこに書いてある記事から、トラベラー通しの会話で使える単語が学べたのだ。

当時使ったロンリープラネットは引っ越しを繰り返し、篩にかけられた僕の少ない蔵書から外されることは今後もないだろう。僕はロンリープラネット、寂しい惑星というタイトルも気に入っていた。一つの惑星を旅しているという大きな視点と、時々訪れる一人の夜の寂しさは、トラベラー姿そのものだった。


出発の朝、ゲストハウスの10代の従業員カメル君が部屋まで迎えに来てくれて、荷物を出すのを手伝ってくれた。そして手首にマラを結ぶのを手伝ってくれた。お礼に使わなくなっていたダイヤのピアスをあげると、喜んでくれた。

タクシーの窓越しに小さくなっていくカメル君は寂しさを隠そうとしない表情のまま見えなくなった。

タイの空港に着いたのは18時くらいだった。10番のバスに乗ってバンコクへ。アユタヤ通り付近で下車。そこから6番バスに乗り換えて、カオサンロードへ。

適当に歩き、160ホテルへチェックイン。70バーツ。日本円で250円くらい。狭く、暗く、冷房なしの暑い部屋。天井にはファンがあるのがせめてもの救いだった。

ひとまず眠ることから旅は始まる。
明日になれば、東南アジアの太陽が僕を照らすだろう。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、マレーシア、シンガポール、インドネシア。東南アジアの旅が始まるのだ。





 

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