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「竜とそばかすの姫」の違和感を紐解く-誰のための何目線の映画だったのか -

竜とそばかすの姫を見たので、個々の要素についての思案ログを残す。

※このノートは映画のネタバレを大量に含みます。

細田守監督作品として見る『竜そば』

『時をかける少女』で名を馳せ『サマーウォーズ』で盤石な評価を築き始めた…かに見えたが、『おおかみこどもの雨と雪』以降はやや批判的な意見も集まるようになった細田守監督作品。特徴的なのはその批判意見がキャラクターの感性に対する違和感であったり、題材に対する解像度の低さへ対する批判であったりと、作劇そのものの良し悪しとは若干違うところへのツッコミが含まれる傾向が強いことだ。

私自身も細田監督にはそういったスプーンひとさじレベルの違和感を感じ続けてきたものの、やはり最初に出会った『時かけ』のインパクトが忘れられず、ずっと新作を追いかけ続けている。そしていよいよ竜そばの公開だ。

画像4※画像はすべてPVからの引用

物語は、高知の山間で暮らす素朴な家族の風景から始まる。両親の愛情を受けてのびのびと成長していく幼児の描写は、単なるスナップの連続に留まらず子供自身の音楽への目覚めを軽快に重ね合わせており見ごたえは十分。一般的な子育て「あるある」と、この家庭ならではの個性の両方がスッと胸に入ってくる、細田守監督の芝居の丁寧さが光る素晴らしいシーケンスだ。その素朴ながらも鋭い描写に心惹かれるほど、母親が命を落として以降、明るかった家庭に漂う静かな悲しさがより強く胸を打つ。

そして成長した少女は「クラスの陰キャ側にいるが、友人もいるし、自分を気遣ってくれる幼馴染もいる。父親とはうまくコミュニケーションを取れないままだが、まったく言葉を交わさないほどでもない。ただ、歌おうとすると胸が苦しくなり嘔吐してしまう。」これが物語開始時点でのすずのパーソナリティである。

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すずはある日インターネット上の仮想空間である「U」に接続。戸惑いながらも自らベルと名乗り、そこで元来持っていた歌唱という才能を開花させることになる。日々スターを求めるUの住人たちはまたたく間にベルを「謎の超実力派歌手」という存在へ押し上げた。友人であるヒロの協力を経て大規模ソロライブを敢行するが、そこへ乱入してくるのが「竜」と呼ばれるUの爪弾きものであった。他者を寄せ付けない竜の存在になぜか心惹かれるベルは密かに逢瀬を重ねるようになるが、竜を追う「ジャスティス」という自警団たちはそんなベルに目をつけ、竜の居場所を吐かせようとする…という筋書きである。

主人公であるすずと「竜」の対比のモチーフはいわずもがな『美女と野獣』である。すずのアバター(As-アズと呼ばれる)の名前がベルであることからもそれは受け取れる。ベルのデザインはディズニーでキャラデザイナーをしていたジン・キムによるもので、そばかすをタトゥー的なデザインとしてうまくあしらったベルの表情は個性的かつ魅力的だ。更にこの映画は、竜だけではなく、ベル自身も姿を偽っている…ということで、より多層的な感情の迷いを描こうとしている期待感がある。

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この映画の前半は「悲しいトラウマを抱え、現実の世界で歌うことができない少女が、Uという場所とベルという姿を手に入れたことにより歌で人々を魅了することができるようになる。」という展開を軸に進む。歌える事への喜び、スター扱いされることへの戸惑い。そして現実の自分とUのベルとのギャップを持て余す違和感…という筋にそって分かりやすく展開していくが、竜の登場から一気に要素が多くなる。すず自身が、すずとベル、一つの心に2つの世界…という混乱をかかえたまま、竜の存在にどんどん心惹かれてゆくのだ。

すずとベル。そして恋愛。繋がりの弱いパーツたち


この時点でまだすずは、現実の自分とベルとの間に感情の落とし所を見つけられていない。なので観客としては、すずが一体どんな心理で竜に惹かれていくのか…そのプロセスをまず知りたいと思うが、その描写は希薄だったように思う。「なんとなく気になる…」というすずの姿勢は思春期の恋愛の始まりとしては適切かもしれないが、そのテンションから急に「2人だけの舞踏会、からの星空のキスシーン(未遂)」につながっていく。シーンそのものはまさしく美女と野獣を思い起こさせるドラマチックな展開だが、前兆の描写が「気になる」に留まっており、そのまま押し通された…という印象だ。似た感性を持つ他者への自己投影から始まる恋愛はよくあることだが、その次のステップである「相手を自分とは別の人間として認める」段階に(ベルの姿としては)進んでいない。パブリックイメージにもっとも近いと思われるディズニーアニメ版の美女と野獣は、拒絶、弛緩、歩み寄り、朗らかな日常、そしていつしか恋愛感情へ…と、実はしっかり段階を踏んでいる。それになぞらえて考えると竜そばの描写は、竜の拒絶の描写から、突然のキス未遂までかなり間をつまんでいる。

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それ自体は恋愛描写としてありえない話ではない。「お互いまだよく知らないけれど、体が接近するとどうしても触れ合いたいという欲求が勝ってしまう」ことはあるだろう。しかし、その後のすずの描写ではそこまで思春期の衝動をしっかり描こうとしているようには見えない。すずはベルとしての自分の行動に大きく戸惑うことも浮つくこともなく普通に日常を過ごしている。

あるいは別の考え方として「すず自身は竜を危険だと思っているのに、ベルとしての自分は恋愛感情を抱いているため、すずの感情を置き去りにしたままベルとしてキスに及んでしまおうとする」という筋もありうるが、この映画は一貫してベルの内面はあくまですず自身であるとしており、そこに齟齬が発生したような描写やセリフはない。むしろUでのベルの行動の大胆さに比較すると、現実のすずが自然体すぎて逆に違和感すら感じられる。Asは本人の才能を引き出すとともに、感情や衝動をもより強く誇張する…という読みときは可能だが、であればなおさら本体であるすずがベルにシンクロしながら竜に惹かれる描写が欲しかったし、その経過を段階を踏みながら描いてくれればそこに感情移入できたのでは…と感じられてしまう。ここに限らず、すずとベルの描写は演出面での連続性が弱く、基本的には分断された二つの世界のこととして描かれてしまっており勿体無さがある。(楽曲『心のそばに』にそれを全部背負わせた可能性もあると思うが、見た当事者の実感としてはそれで充分と言えるほどの説得力は無かったように感じた)

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「とはいえ限られた全体の尺の中で全てを拾うのは限界があり、シナリオ上の取捨選択はある」という捉え方もあるだろう。しかしこの映画はそうフォローするにしてはあまりにも全体にノイズが多すぎるように思う。その最たるものが中盤の「竜の正体探し」である。「竜そば」の鬼門は明らかにこの中盤にあると感じる。

古典的なゴシップ感で進行していく竜探し

竜はU世界の荒くれ者。しかし驚異的な強さ故に惹かれるファンも多い存在として描かれる。よって「竜の正体は誰なのか」がUの内外で繰り広げられる世界規模のゴシップとして中盤の大きな要素を占めてゆく…と、展開だけ書き出すとそんなにおかしい筋には感じられないが、実際に映画館でこれを見ていた当事者としてはこのパートがとにかく辛く感じられた。

まず「ネット上のスターの、現実の姿は誰なのか」というゴシップ自体、世界中が熱狂するほどの題材に感じられないのである。

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例えば大人気vTuberの正体は誰か?という問いにはみんな興味を覚えるだろうが、しかしそんなことよりもそのvTuberがいかに自分たちを楽しませてくれるかという方がファンとしてはよほど重要である。世間一般的には迷惑系炎上系と呼ばれるような配信者ですらたくさんのファンがいることは皆さんご存知だろう。エンターテイナーの正体に興味を抱くことはあっても、それが話題の主体になり続けることはあまり無いのではないだろうか。過去に問題行動を起こした人間だった…となればまた別の意味での注目は浴びるだろうが、それにしたってファンを含めた多くの人々が一様に固執するほどの問題かというと疑問が残る。

もうひとつ例として、世界的に有名なストリートアーティストのバンクシーだ。バンクシーの正体については新作が世に知れ渡るたびに話題になるものの、バンクシーの作品そのものが世界に与えるインパクトと比べるともはや小さい話題では無いかと思う。正体を知るヒントが少なすぎるから…というとれ高の低さもあるだろうが、言ってしまえば我々は世の中の有名人について、数十年前ほどには興味がない。嘘偽りない私生活をさらけ出す有名人もそれはそれで既にたくさんいて「有名人も意外と普通の人なんだ…」というささやかな落胆と、「有名人も意外と自分と同じなんだ!」という共感が広く周知されている時代である。それをわざわざ積極的に暴きたいと思う人は今やごく一部に限られるように思う。

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しかしとりあえずは竜の正体誰ぞやが物語の牽引力になる展開は止まらず、すずの友人ヒロが持ち前のネットコミュニケーション力を使って竜の正体に近そうな人たちとコンタクトを取る。画面上に入り乱れるAsとその現実での姿。「現実」と「U」そして「As」が地続きでありネットの向こうにいるのは現実の人間だ…ということが強調されるスペクタクルな描写だが、Asの本体であるユーザーはネット上で素顔を晒している人も多く、直接コンタクトを取れば一切の警戒もせず現実の姿でweb通話に応じている。これがまたこの映画の読み解きを困難にする。

ジャスティスたちはターゲットを脅す手段として、U世界のAsの人間としての姿を強制的に晒す「アンベイル」という制裁手段を声高に喧伝しているが、顔出ししている人がこんなにも多いならアンベイルのペナルティは多くの人にとっては「ちょっと気まずい」くらいのもので済むように感じるし、人口の少ない土地で一人暮らししているような一般人であればほぼ何のペナルティも発生しない。竜は犯罪行為をしているわけではなく、子どもたちのファンも多いため、芸能人などであれば「自分が竜です」というカミングアウトがむしろイメージアップにつながる可能性すらある。

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そもそもの話として竜の正体を知ったところでどうなる?正体が分かったら竜がおとなしくなるという理屈は?例えば劇中のタトゥーアーティストやスポーツ選手の正体が竜だったとして、だったら何なのだろう?正体を突き止めて、アカウント停止を要求したら運営がそれを飲んでくれるとでもいうのだろうか。それに対する回答は一切描写されない。

ジャスティスやマスコミはつまるところ実効性の薄い「帰りの会の吊し上げ」レベルの事を延々やっていることになる。当人たちが煽っている危機感と、それによって起きるであろう結果がどう考えても釣り合っていない。「ネットの正義なんてそんなもの」という事を言いたいにしては、ジャスティスたちはドラマを駆動させる要素としてあまりに大きなパーツを担っている。気にしたくなくても目に入る存在が、物語的にさほど重要と思えないことをアピールし続ける。これは鑑賞する側にはストレスだ。同時に、帰りのごときを「全世界が注目するホットな話題」として扱い続けているこの世界そのもののリアリティラインを大幅に下げてしまう。

ジャスティスのリーダー「ジャスティン」がネット世界で悪を暴くことの正当性を語るシーンがあるが、そもそもジャスティスはスポンサー付きとはいえただの自警団、私刑団である。警察組織の人間でもなければ運営側の人間でもないので、実は正義の象徴にも支配の象徴にもなっていない。「自分に酔ったテロリスト」の粋を出ていないジャスティンの語る正義は言葉遊び以上の意味を持たず、ベルとのやり取りもどこか迫力なく上滑りし続ける。竜の城に火をつけたのも、世論の機運が高まったと証と読み取るのは難しく、自らの理を示せなかった小物の逆ギレに見えてしまう(事実そうなのだが)。

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一方で、現実のすずは竜の正体が身近にいるのでないかと疑い始める。自分をいつも遠くから気にかけてくれている幼馴染のしのぶがそうではないか…と。そこに孤立しているが性根の優しいカミシンと、クラスのマドンナ的存在のルカが加わり一気に青春ラブコメの様相を醸し出す。ここは単純に微笑ましく、すずという主人公の目線でも腑に落ちる葛藤ではある。すずはベルの正体が自分であることをヒロ以外には知られたくないからだ。しかしリアルタイムで見ているととにかく前後の竜探しの展開が乱反射しており、すずの友人たちに対するジレンマに集中しきれない。

この映画が妙に上手いのは、竜探しをすずの現実にまで広げてゆき、展開をカオスに持ち込むことで「竜の正体が分かったらどうなるのか」という疑問をそもそも持ちにくいように構成していることだ。それ自体は(意図的なものではなく、結果論だったとしても)上手い、上手いがゆえに観客としては「話の終着点がわからない状態で犯人を追いかけている第三者の七転八倒」を見せ続けられる形となる。七転八倒自体にもドタバタ劇としての面白さはあるが、私自身はすっかり登場人物の誰にも感情移入できないまま長い時間を過ごすことになってしまった。

前置きが長くなったが、私が中盤全体を通じて思ったのは、ネットの向こうの人物の正体は誰なのか…これをストーリーの牽引力にするには、ちょっと時代が遅すぎるのではないか、ということだ。ネットのイメージがまだ”無限の可能性を秘めた未知のフロンティア”という認識だったならば「その世界のスターの正体を知りたい!」が有効に機能した時期もあったと思う。例えば同監督による『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は2000年3月の作品であるが、この時代は「ネットの向こう側にいる誰かの正体」にカタルシスがあった。細田監督はウォーゲームとサマーウォーズで、その正体を「世界中に点在する無数の善意」として描いた。

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しかし今やネットの向こうにいるのはただの「我々」である。神山健治監督の『東のエデン』が、ネット民を「おまいら」と定義したのが2009年。もはやネットにピュアネスを求めるのは無理筋で、なので竜という個人にスポットを当てる事自体は分かりやすい整理ではあるが、「ネットを抜けた向こう側には何か秘宝めいた真実がある」という考え方はいまやネット初心者の高齢者を狙ったyoutube陰謀論動画の主張に近い。

細田守監督が「この展開で十分観客の興味を維持できる」という勝負をしたのだとしたら…竜そばがこういう構造になる理由は分かる。理由は分かるが、ポンと膝を打つような納得感はない。もっと単純にすず(ベル)の「好きな人の事を知りたいので会いにゆき、そのたびに少しずつ竜への思慕と理解を重ねてゆく」という心情を豊かに描写する方がより効果的であったように思う。

明かされるすずの素顔と竜の正体

物語後半はここまでの貯金を一気に放出するクライマックスの連続になる。
まずは竜の正体が「日本のどこかで虐待を受けている少年」であることが判明する。竜である少年の弟はおそらく発達障害的な描写がなされており、そんな弟に夢を与えるために兄は竜を演じていた…しかし竜自身もまたか弱い少年で、父からの虐待になすすべもなく、またすずがベルであることを信じられず「結局誰にも自分たちの事なんか守れない」と拒絶し、通信を遮断してしまう。

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「虐待を放置したら、数分後にも取り返しのつかない事になるかもしれない」という予感を映画全体で煽ってくる。ベルの正体がすずであることに気づいている幼馴染のしのぶの提案により、すずはUの中でゲリラライブを行い、そして自ら正体であるすずの姿を明かすことで竜(虐待を受けている少年)の信頼を得ようとする。Uの住人たちはすずのその行いの意図が分からずあっけにとられるが、やがてすずの美しい歌声に感化され、すずの歌は次第にU全体を巻き込んだ祈りの合唱となる。竜はベルの正体を信じ、すずと再度通信をつなぐ。

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少年は自分たち兄弟の居場所を教えようとするが、自分の虐待映像が世界中に配信された事に気づいた父親によって再度通信が遮断されてしまう。その場に集まっていた友人や合唱隊の大人たちの集合知によって竜の住居が遠く離れた東京であることを突き止めたすずは、バスや電車を乗り継ぎ東京へ向かう。竜とその弟を発見したすず。暴力で子どもたちを支配しようとする父に果敢に立ちはだかり、気圧された父親をその場から遠ざけることに成功する。かくてベルと竜は現実で逢瀬を果たし、抱きしめ合ってお互いの無事を喜び合う。それは恋愛感情ではなく、痛みを知る子どもたち同士の友愛であった。地元に戻ったすずは今までよりも周囲の人たちと少し前進した人間関係を築けるようになり、現実世界で歌えなかったトラウマを克服した…という兆しを見せて物語は幕を閉じる。

こうして文章でまとめてみると全体的にはきれいに集約されており、繊細な心理描写とダイナミックな展開を重ね合わせた印象のよいクライマックスに見える。が、実際に劇場で見ていた感触としては全体的に要素が唐突で、かつ、登場人物の心理もやや共感しづらい描写が多く感じられたのが正直なところだ。(すずや竜とまったく同じ経験をしたことがある!という事なら強烈に刺さる描写もあったのだろうが…普遍的なエピソードというには「母親が他者のために自己犠牲で命を落とした」と「父親から虐待を受けていた」を一つの映画で同時に入れ込んでくるのは、感情移入を誘う映画の手法としてはあまりにも切れ味が尖すぎる。

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そしてこの映画の難しさを語るのに外せない大きな要素が、「U」の位置づけの不明瞭さ、そして個人とAsの対比がずっと小さくブレ続けていることだ。

時代錯誤な『U』と恣意的運用が気になる『As』

「U」は個人生体認証により複アカが取得できない設定になっているが、これがまた少し古いネット感に紐付いているように感じられる。いまや企業個人問わず複アカ運用はあたりまえ。note、twitter、youtube、FacebookにInstagramやTikTok、「U」に親和性が高そうなものならVRChat。ユーザーが重なり合う大小様々な世界観があり、その上でそれぞれがある程度不干渉なまま並行して存在するのが現代のインターネットだ。ネットユーザーは「もう一人の新しい自分」の消費期限は案外早いことを知っている。そして「新しいアカウントでやり直せるからネットは自由」なのだとこの20年で学んできたのだ。Uのような統合されたネット社会というゴールデンエイジなイメージは全盛期のmixi的な時代錯誤感がある。

「U」はサマーウォーズの「oz」を発展させた究極のネット理想郷的な存在なのだろうが、その未来感が2021年の今となってはレトロフューチャーすぎて楽しさをイメージしづらい存在になってしまっている。よって、「U」で居場所を失うことが、すずや竜にとってどれほどのダメージになるのかよくわからない。

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またAsにしても位置づけがもやもやしたままだ。ベルはすずの現実でのコンプレックスを解き放つ存在として位置づけられており、ベルの姿であれば歌唱力を発揮できるという構造だ。

『すずは歌えない。ベルは歌える。』
『すずにはそばかすがある。ベルにはそばかすを模したタトゥーがある。』
これは分かる。しかし

『すずの見た目は地味な印象の少女である。ベルの見た目はルカに似ている。』
ここですずとベルの関係性は迷路になる。

すずがルカに憧れている事自体は描写されているので、それがAsで似姿として反映された…という読み解きはできるが、であればなぜそばかすは残ったのか。「利用者の遺伝情報や秘められた特性を読み取りAsのデザインを起こす」という事になっているが、その設定と絶妙に齟齬を起こしている描写があまりに多い。

Asは本人の才能を強制的に引き出す…とヒロが語っているが、現実のすずはトラウマのせいで歌えないだけで、もともと音楽的素養が高かったことは冒頭でも表されている。なんならかすれ声で修練している描写すらある。これらは「秘められていた」「引き出す」という読み解きとケンカをする。ラストに合唱団のリードボーカルを勧められ、驚きつつもまんざらでもない描写からも、単純にすずの才能はトラウマさえ払拭できれば花開く、と考えるほうが自然なように思う。Asの設定を絡めて語るには無用なミスリードを誘っている。

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ネット上では理想の主婦を演じているが、実際には孤独で虚言癖のある中年女性が登場する。彼女のAsはおむつをつけた赤ん坊の姿であるが、これを幼稚な精神性の現れ…とするのはあまりにもAsの設計思想が歪んでいるし、「赤ん坊なら許されると思っている」ことの現れなら、そもそも遺伝子情報ってなんなんだ、となる。

遺伝的性質と、社会性を身に着けた後に現れる後天的な性格をごっちゃにするのは筋がよくない。「性格の悪さは遺伝的なもの」と「現実で誠実に努力してもUでは邪悪」を両方同時に肯定することになってしまう。対になる理屈として「美人は遺伝子レベルで性格がよい」と「心が清ければUでは美人」が発生するが、厄介なことにルカとすずの設定とそれぞれ符号してしまい、宗教的な徳とカルマ、今生と来世的な考え方に近くなってしまう。

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これは仮説という前置きをするが、この映画におけるAsの位置づけはそもそもかなり流動的で恣意的なものではないか。設定上の理由としては「遺伝子」「秘めた才能」などのワードが引用されはするが、実際にはその場その場で現実とAsの関係性はちょくちょくブレを起こす。赤ん坊Asがヒロに図星をさされたかのようにギクリと逃げ帰るところなど、すずのAsが意図せずルカの似姿になる流れとまったく整合性が取れていない。その場その場で気持ちのいい解釈ができるようにAsの位置づけがシーンごとに変わっている可能性がある。

その場を煽るだけの露悪的なAsたち

そう仮定して、すずがUで自らの現実の姿を明かすシーンを振り返る。すずの姿を見たU住人たちは、こんな冴えない少女だったとは、地味なただの女子じゃないか…など粗暴な感想を遠慮なくぶちまける。しかしすずは竜を助けたい一心で、現実の姿のまま歌い出す…という感動的な筋書きだが、しかし気になるのはこのU住人たちの過剰なまでのルッキズムアピールである。

思えばベルが最初にUに現れたときから「なんだそのそばかすは」と、見た目の醜さに対する心無い言葉の描写はあった。しかし、周りを見渡せばU住人たちのAsはそもそも異形のクリーチャーの集まりである。巨大な牙のぬいぐるみ、ブリキのロボット、ギョロ目のラガーマン、人間味が薄い西洋人形、たくさんの顔を持つ妖怪のような姿…

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これらの造形が現実世界の本人の何らかの投影であるというのも残酷だし、そんなAsたちが、ベルのようにかなり人間そのものの姿に近いAsを指して「醜い」というのは、一体誰の何目線なのか。Uにおいては人間離れした醜さこそが精神の開放を表現したものとして逆に美しいと評価される…という考え方もあるかもしれないが、ベル登場前にU内チャートを席巻していた歌姫が完全に人間と同じプロポーションで人気を博していた時点でその読み解きは難しい。U世界はむしろ現実以上に美醜に対して敏感である。しかも、その指摘をする側には自分を省みるという葛藤が描かれず、あまりに人間味がない。まるで設定されたアンチコメントを反射的に履くだけのbotの集まりのようだ。こんな世界を「新しい自分になれる魅力的なサービス」と位置付けるのはちょっと無理がないだろうか。「U」の本質や成り立ちがどうこうの話ではなく、ごくごくフラットな印象として、みんなが利用したがる楽しそうな場所には見えないのである。

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ここまでの展開を見ても、この映画における善悪の語り方は「一人の人間の中に善性と悪性がある」というよりは「善性の人と悪性の人は最初から別れている」という筋が強く感じられる。要素の多い映画だからモブAsの反応をデフォルメして話を理解しやすくした…という狙いはあるだろうが、限度を超えているように感じた。Asの中にいるのは1個人1アカウントに紐付いた一人の人間だと考えると、この映画はあまりにモブAsの人間性を軽んじて描きすぎているように思う。モブAsたちが悪意や感動を都合よく煽る装置に成り下がっている。

すずの歌声に合わせてAsたちが合唱するクライマックスは、すずに感化されたモブAsたちの善性が発露する神々しさ、万人の共感的な読み解きを期待できるシーンだと私は考えている。しかしここまでの映画の展開でモブAsを「愚かな世論」扱いするだけした後なので、「見た目が醜いのでケチをつけたが、歌声が美しいので見直してノリで一緒に歌った」というルッキズムがタレンティズムに置き換わった程度の軽薄な行いに見えてしまうし、そんな短絡的な感情が飛び交う世界観ではすず自身のこれまでの葛藤のリアリティもいくぶん安いものになってしまう。

旧チャートの歌姫に「ベルも私と同じ…」とつぶやかせることでそれをフォローしたい気配は感じるが、ここまでのモブAsたちへの印象を払拭するには要素として弱い。個人的には「歌姫はそういう感じ方ができる人だった。他のAsは大多数がそうでもない。」という印象に留まった。幾多のクリーチャー型Azにさせられた側からしたら「人間の姿をしているだけマシなAzの自己憐憫」に感情移入するのは難しいのではないかと想像してしまう。

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すずのトラウマ寛解の背後で繰り広げられる祭

話をクライマックスシーンに戻すと、
すずが自分自身の姿で歌唱する、その必死さが歌への感動として伝播し皆が合唱する中、すずはやがて「見ず知らずの少年を助けるために自分を顧みず行動する」という行いに母親との共通点を見出し、トラウマから解き放たれる。これは非常に感動的だった。この瞬間はシチュエーションの尊さと歌の美しさにここまで鑑賞してきたことが報われたような気持ちになったのだ。

そしてすずの姿は花びらで纏われ、再びベルの姿になる。

いや結局そっちに戻るんかい!!

「美女と野獣、野獣が王子に戻ったら台無しでは説」はよく言われることではあるが、それを美女の側でわざわざやり直すという意図の読めなさ。すずのトラウマが払拭された時点でルッキズム問題は解消できたからすずでもベルでもどっちでもいいじゃないか…という話にしたいんだとしても、もう少しタイミングはあったように思う。すずの姿のままでこのシーンを通した方がテーマ的にも沿ったものになったのでは…。

このシーンは「すずと母親と竜の話」に集中して欲しいのだ。それがこの瞬間もっとも大事なことではないか。すずの心の向きだけをしっかり見届け、竜に届くように観客自身も祈りたい…そんな状況において、吉兆鯨神輿はシチュエーションのミスマッチを起こしているように感じる。絵面をリッチにはしているが、そもそも竜の信頼を得るのに「皆の心を一つに」的なシーケンスは必然性がない。展開の納得感という意味ではやや逆効果だ。

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すずの静かな独唱で最後まで通しても良かったような箇所を、しかし最大の見せ場にしたいという欲とのせめぎあいでああいった表現にしたという判断は想像できるが、もっとキャラを大事に扱ってほしい…と思う。あの場で必要だったのは、すずと竜という2つの魂の共鳴だったはずだ。2人とも「みんなに認識されなければ救われない」というタイプのキャラではない。ベルは自分のために歌い、竜は弟のために戦う。ギャラリーたちが集うのはその結果であって目的ではない。合唱祭をやるなら中途半端な終わり方をしたソロライブの尺をもう少し長く取るとか、全てが終わった後スタッフロールのバック映像に持って来るなど、気持ちよく印象に残すやり方は他にあったように思う。

クライマックスに合わせて集まった合唱隊の大人たちはそれぞれ見ごたえのあるキャラデザインがなされており、ベルのバックコーラスとして参加を期待させるものの、実際にはAs全体の合唱に混じってしまい破壊力が劣る見せ方になっている。このときのために集まった要素が、実はちょっとずつ噛み合っていない。いいシーンだから細かいことはいいんだよ!で済ませるには、ここまでの要素のすれ違いが大きすぎる。

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極めつけは、ヒロとしのぶ。この2人のすずに対する揺さぶりである。

すずに対する友人たちの不穏な支配欲

すずに正体を促すように仕掛けたのは、ベルの正体に自力で気づいたしのぶである。幼馴染であればなにか気づくに値するスキがすずにはあったのだろう(具体的な描写はなかったように思うが、まあ納得できる範囲ではある)。すずが正体を明かしたら竜がそれを信じてくれるとして、それでどうなるのかはよくわからないが、この映画は「正体を明かすと大変なことになる」という前提で進んでいるので一旦そこは飲み込むことにする。

ただそれを飲み込んだ上でも、現実の姿ではすずは歌えないという地の設定がある。竜に信じてもらえない上にすずがベルとしての存在価値を失うことになる…これを竜の信頼を勝ち得るトレード展開にしたいのは分かるが、納得感が薄い二択に感じる。そもそも正体を晒すことで竜がすずを信頼してくれるのかどうか、この時点では観客に情報がないからだ。顔を出さないと信頼されないという考え方自体、どちらかというと不確かな情報を無理やり納得させる典型的な詭弁のテクニックでもある(顔出し運営者によるオンラインサロン界隈は実際にトラブルが絶えない)。事が良い方に運ばれるのかどうかかなり不明瞭な状態で究極の二択を無表情で迫ってくるしのぶの雰囲気はパワハラ上司かヤクザのふるまいに近い。

更にヒロだ。ヒロはしのぶの提案にかなり強烈に抵抗感を示す。すずは自分の正体を隠していたからベルになれた。ベルがすずであることがバレたら、またもとの歌えないすずに戻ってしまう。そうしたくないからずっと隠してきたんじゃないかとかなりヒステリックに取り乱す。すず自身も葛藤に震え言葉が出ないので、ああそうなのかな…と思えるシーンでもあるが。

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しかし、すずは「コンプレックスが故に歌えない」のではない。「母親のトラウマが先にあって、それが故に歌をはじめとした様々なコンプレックスを抱えている」のである。すずをよく見てきた親友のヒロであれば、ベルをプロデュースしネットを手玉にとったその手腕で「竜にだけ信じてもらう手段は他に何かないのか」を思案しそうなものだが、ここに来て突如ヒロはすずの人間性に対する理解の解像度を極端に下げている。

すず自身が葛藤するのは分かる。しかしヒロがそこまで取り乱す理由はなんだろうか。友人のメンタルを心から心配しているような演出ではあるが、「2人の少年が虐待に苦しみ続けるかも」という事実と、すず自身がその2人を救いたいと願っている事を袖にしてしまっている事に気づいていない。そもそもすずは現実にしっかり居場所がある少女である。Uにおいては歌える事、聞き手がいることがすずにとって重要であり、ベルの評判については困惑こそすれ満悦しているような描写はない。以前の自分に戻ったとして、引き換えに大切な少年の命が救えるなら仕方ない…という方が自然な思考に感じる。そこに圧をかけて決断を難しくさせているのは他ならぬヒロだ。どうもヒロ自身がすずへ過剰な自己投影…商業プロデューサーとアイドルの関係性に沈んでしまっているように見える。

正直それはそれで見ごたえのある話というか、ジュブナイル版パーフェクト・ブルーのようでそれをテーマにした映画を見たいとすら思うが、すず主体の映画のクライマックスに挟むにしてはあまりに唐突なドデカ感情すぎてさすがにノイズに感じられる。すずの葛藤を客観的に煽るという効果はあるものの、すず自身の判断の行方という目線が霞んでしまっている。しのぶにしてもヒロにしても、すずの判断の問題のように見せかけて、実は自身の勝手な要求を押し付けている構図になってしまっている。混乱する友人や大人たちの意見の押し付けあいというカオスの中、すず自身から自発的に出た言葉として「…私が素顔で歌えば信じてもらえるかもしれない」という昇華の仕方はできなかったものだろうか。そういう展開であれば、この後東京へ一人で行こうとするすずの覚悟にもある程度の説得力が生じたように思う(とはいえ大人たちはやはりついて行くべきだったが)。

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竜そばのテーマは群像劇に耐えうるものだったのか

見終わってみて思うのは、竜そばの最奥にあったのは「赤の他人のために行動し、命を落とした母親にずっと納得できなかった少女が、他ならぬ自分の中に同じ衝動が芽生えたことに気づいてトラウマを払拭する話」であった。ポスターにかかれている「あなたは誰?」は、丁寧な読み解きをすれば、すず自身も知らなかったすず根本の人間性に対する問いかけ。そしてそれは竜という人が誰なのかを知ろうとした事に起因する…という複数の意味を重ね持つ秀逸なコピーにも読める。ただ、映画本編はそれに耐えうる強度を持っているようには思えなかった。

映画側としては、もちろん少女のトラウマもあるし、おそらくルッキズムに代表される差別偏見の話も入れたかったのだろう。行き過ぎた正義感の危うさや、現実とインターネットが交差する中での犯人探しもやりたかったのだろうし、現実の虐待問題という社会性も込めつつ、地域レベルの人間関係の話、父と娘の話、様々な要素を組み上げた見ごたえを目指したのだろうとは思われる。そして個々の要素はたしかにしっかり存在していた。

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だが、通しで見終えた時に「つまり何を言いたい映画だったのか」をしっかり掴めた観客はどのくらいだったのだろう。映像、音楽に見ごたえはあっても、箇所箇所での違和感の蓄積はあった人は多いように思う。その違和感を帳消しにできる人とできない人がはっきり分断さるのが細田監督作品の特徴でもある。それが今回も「賛否両論」という見られ方に繋がっているように思う。この映画は、それぞれさっと触れる程度であれば作品に厚みを与えそうな要素たちを「本音で語るなら顔出しすべきだよね」「虐待のセーフティネットって不備があるよね」と、それぞれに一家言あるかのように振る舞う癖がある。特定個人の一意見レベルの事を強引にストーリー内で正当化するため、結果としては現実世界の問題が良くも悪くも単純化して再現される傾向が強い。世界の本質を極力シンプルなものとして気持ちよく理解したい人たちと、世界が複雑でままならない事をそのまま飲み込もうと務める人たちの相容れなさ。それがそのままこの作品の賛否に発展してゆく。

『竜とそばかすの姫』は、私には多くの要素をすっかり持て余した作品のように感じられてしまった。中途半端な群像劇ではなく、あくまですずの目線に集中した視点の狭い映画であれば同じプロットのまま深い感情移入ができる作品になったのでは…と思う。個々のキャラデザインにはそれに耐えうる深みがあったように思うのだ。自分の中に、親から遺伝子レベルで継承される善性が隠れているのかもしれないという期待と、それが世界に受け入れられるカタルシス。そしてその善性をいつか困っている誰かに差し伸べたい…という思いは多くの人の感動と、自分もまたそうありたいという共感を呼ぶはずだ。そここそがまっすぐに一番に観客に伝わるべき映画だと私は感じたが「それにしても…」が多すぎるのである。

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差別や悪意の話としては「無責任なモブを表現する手法として拾った」以上のものはない。
「行き過ぎた正義感」の話としては、ジャスティスはネットを蹂躙する正義マンの比喩としてはいまひとつ的を外している。「主張はするが自分では責任を追わず、ネガティブな同調圧力で世論を扇動し、ターゲットやそのスポンサーを叩く」…それが現実の正義マンの扱いの難しさである。スポンサーを背負って揃いのコスチュームで目立ちながら正義を主張するジャスティスたちはどちらかといえば2010年代前半の政治系活動家たちのオマージュのように見えるが、それらのムーブメントは既に沈静化して形を変えている。今あえてそれを引用することの有効性は感じない。

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Uで描こうとしたネット社会の理想も問題も、全体的に十数年前のネット感が基準になっているようで特に身につまされない。
推理劇としては「正体がバレるとどうなるのか」が終盤まで行方不明。
虐待問題はすずのコミュニティにその気配が一切なかったため、ややとってつけた感がある。センシティブな題材だけに嫌悪感が先に立った観客も多いと思われるし、感情移入するまで噛み砕くには尺が短すぎる。
父と娘の話としては、これはシンプルにコミュニケーション不足なだけで、家庭内不和というほどの話ではない。父親は元々あまり喋らないタイプに見えるし、母親の事があってぎくしゃくしているだけでそもそも仲が悪い親子ではないのだ。お父さんは娘のために毎日カツオのタタキをスタンバっていたのである。

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竜そばのテーマが群像劇に耐えうるか、という問いかけならば答えはYESである。ただ、個々の要素の描写の納得感が薄く、いまいちキレイにつながっていない。「描写こそないが想像力で補える」という映画もあるが、竜そばは一見成立していそうな要素も近づいてみるとかなりの率で脱臼を起こしており、読み解きに胆力を要求される。私は中盤にかなり窮屈で退屈な印象を持ってしまった。群像劇的…というよりは、元からすず一人の話なのに脇役が出張りすぎていることの混乱なのかもしれない。終盤の展開には見る者の心に深く訴える美しい展開が控えていたものの「贅肉的な表現を削いでもっとすず個人の内面の話に集中しててくれれば…」と残念な感想を持つに至った。

細田守作品への期待。そして

これはあくまで私自身の考え、と断っておくが、細田守監督作品はキャラクターの理念や行動、感情の向きがやや突飛であると感じられることが多い(世の感想などを眺めていても「おおかみこども」は特にその種の指摘を受けているように思うが、ひとまずは私個人の感想として以下を読んで欲しい)。

個人的に一番大きく違和感を感じたのは『バケモノの子』の熊徹である。
クライマックスで「俺がお前の剣になる」と言って文字通り九太と同一化することを主張する熊徹。だが、そこまでの描写で九太は人の心の弱さと向き合う事ができるようになっており、弱さ故に憎悪にとりつかれた一郎彦への理解をしっかり示せているように見えた。それこそが九太の人間的な成長の証だ。まだ少年であるが故の迷いは残るものの、あの場で必要だったのは精神論ではなく、闇化した一郎彦に対抗するための具体的な手段。外部から可能な範囲の手助けであったはずだ。

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しかし映画全体の流れは「九太はまだ未熟な子供であり、その弱さを身を捧げて埋めようとする熊徹は、不器用ながらも子のために信念を貫く真の理解者である」という理屈を正当化しようとする。九太と熊徹、2人分の精神的強度が一心同体にならなければ太刀打ちできなかったという筋ならまだ納得もできるが、心の剣になりたい…と例えられたそれは就職先や結婚相談所についてくる親の理屈と大差がないように思えた。子供の危機を「一体化」で解決しようとうするのは毒親的な自己同一視で、愛情の表現として正当化するにはあまりに危うい価値観だ。放任主義的な事を言っていたはずの熊徹は、実は根っこのところでは誰よりも九太の成長を信頼していないように見えてしまう。もちろん細田監督がそんな視点で映画を作ったのではないことは分かる。ただ私には結果としてそういうテーマと描写のすれ違いを起こしている映画に感じられた。

そして今回の竜そばを見て感じたことだが、
この映画の脚本は、人間やネット社会に対する類まれなる観察眼に基づいて設計されており、人のしぐさ一つで感情を表現する技術と、U世界の絵力で観客の心を飛翔させるという強力な演出力がある。これは疑いようがない。他に替えがない魅力である。
しかし一方、人ひとりが持つ感情その中身の吟味や、行動理念への理解、生きる目的に対するまなざしが全体的に単純すぎるように感じられる。強い言葉を使えば「チープ」であると言い換えてもいい。

人物描写を記号化にとらわれず表現しているのに、その人物の本質を根本のところでは雑に扱っている。個々には涙が出るほど見ごたえがあるシーンもあるが、話全体を振り返ってみるといまいちキャラの描写に納得しがたい点が多い。すずに集中して見れば筋の通った話であったように思えても、その輝きは脇役やモブのシュールな人物描写によってやや霞んでしまっている。『時かけ』のように非常に狭い人間関係のドラマであればそのシュールさは主人公たちの個性の現れとして有効に働くかもしれないが、登場人物が多くなったり舞台背景が複雑になったりすると加速度的に説得力を失い始めるように思われる。

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見せ場を安易に盛り上げたいがために居なくてもいいモブAsの合唱をさせる。一方、すずが竜の父親に一人で立ち向かう絵を作りたいがために高校生の女の子を一人で東京に送り出す…そんな風に見えてしまう。問題提示はリアルなのにその解決シーンを絵作り重視主義に逃げるので、心理描写が一番欲しい繊細な場面でいまひとつキャラをきちんと人間扱いしていないような感覚が発露する。これまでの細田監督作品の多くで感じられたそういう違和感が、今回の映画を経てなお強まってしまった。

本記事のタイトル「誰のための何目線の映画だったのか」に対する回答は「生きづらさを感じている現代人…を換骨奪胎した監督目線の映画であり、監督の感性と相性が良いオーディエンスと、瑞々しい刺激を求める子どもたちのための映画」と言える。価値はあるが万人に勧められる普遍性を備えてはいない。

竜そばはセルフオマージュ的なカットも多く、監督自身もおそらく自身の集大成的な意図を込めた力の入った大作であることは疑いようがないと思う。と同時に、監督の人の捉え方の弱点もかなり出てしまった映画のように思えた。トータルで見応えはある。あるのだが、もう一度見たいと思う映画ではなかった。個人的にずっと期待し続けている映画作家ではあるが、竜そばに関しては「個々の要素は素晴らしいはずだが、全体としてボタンの掛け違いが多すぎる」というのが素直な感想である。

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最後に、しのぶが「これですずの心配をしなくてよくなった。やっと普通に(友人として、もしかしたら好きな異性として)付き合える。」と開放されたかのように語るシーン。いい話にしたかったのだと思うが、幼馴染を監視するかのように無表情で遠くから睨み続けた少年のセリフとして、あまりに闇が深い。そもそもすずが映画中盤にクラス内で孤立しかけたのは彼の視野狭窄な善意が原因であるが、彼自身はそれに気づく事もなく「すずが頼りないから自分が心配してあげていた」という上から目線を隠そうともしない。ヤング熊徹の誕生である。彼を主人公にするとまた違った角度のサイコサスペンス映画として成立してしまいそうなところに、やはり細田守監督の鋭い人間観察力と、同時にその行動理念への解釈のゆるさが同時に現れているなと思う。

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