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海士町図書館からみるマイパブリックとグランドレベル


3月28日


今日は海士町図書館へ訪問した。
館長さんに海士町図書館の歴史や今取り組んでいることをお聞きするために。

海士町に来て初めて訪れた時、風通しがいい場所だなって思った。

それは建物の造りだけではなく、人との関わり方が。住民の声を拾い上げて落とし込む。風通しがいいからこそ、とても過ごしやすくてきちんと図書館として機能している。


窓から見える風景


利用者目線で話すと、ここにいるととても心地よいのだ。
それは館内でコーヒーや紅茶などドリンクが飲めることかもしれない。パソコン作業者用にWi-Fiやコンセントが完備されていることかもしれない。大きな窓から見える田園風景が織りなす、のどかな時間の流れかもしれない。ひとりでゆっくりと自分の時間を作ることができることなのかもしれない。


余談ではあるけれど、海士町は人との距離が近い。小さい町なので、まちを歩くと知り合いに会い、立ち話をする。ご飯屋さんに行ってもカフェに行っても誰かと話す話す話す。

「話す」という作業は、とっても高尚で大事な作業だ。こういう小さな町だと特に。話すことでお互いの齟齬を無くし、新たなチャレンジを生み出し、仲間を作る。なんて素敵な作業なんだろうと思う。

しかし一方で、ひとりになれるところが少ないということになる。時にはひとりで悲しみに暮れたい時もある。誰とも喋りたくない時がある。そういうときの、私のとっておきの場所が、海士町図書館なのである。




地域の声を拾い上げること。

それはパブリックコメントじゃなくてもいい。公共ができるだけプライベートに寄り添いながら拾い上げていく作業が大事なんだと思う。

海士町図書館は貸出の時にもゆるりと住民の方とお話しする。お話できなくてもいろんな手段で、例えば紙に書いてポストに入れるなどして私たちの声を届けることができる。今まで図書館がやってきたイベントも、住民の方から直接「こんなのやってみたいんだけどどう?」から始まってイベントが始まってきたらしい。




昔読んだ本を思い出した。

田中元子さんの「マイパブリックとグランドレベル」
(欲しい「公共」は自分でつくっちゃおう。もっと屋台!もっとベンチ!もっともっと、好きなことが出来る場所へ。あなたのためのまちづくり実践テキスト。)



「グランドレベルが死ねば、まちは死ぬ」と書かれていた。

グランドレベル=地面。地面に自分が立ってみて自然に視界に入ってくる風景のことをここではグランドレベルという。グランドレベルを見れば人々がまちに対してどれだけ能動的かがわかる。生きたグランドレベルとは、「出会う」「くつろぐ」「遊ぶ」「話す」「食べる」といった行動を能動的に自然と実現できる場。観光客にとっても、開かれた「公共感」は受け入れられていると感じる。



自由の本質とは。

自由といっても真っ白なキャンパスは意外と受け入れ難い。ご自由にどうぞ!って急に言われても確かに戸惑ってしまう。良い自由ってのはこうだ。

「うっすらと下絵を描いてあげたり、補助線を引いてあげた白紙」

ただのほったらかしではなく綿密に計算された補助線があることで、人々を戸惑わせるだけの「解放」から、ひとがいきいきと躍動する「自由」へと進化する。「そこから先は自由」の「そこ」を見極めることが、ひとびとの能動性を喚起する設計になる。



また本を引用する。WIREDで記載されていたルールの考え方だ。


まちは、「禁止」主導のルールではなくて、「自由」主導のルールにしなければ。

例えば、住民が「こんなことをやりたい」と思う。
まちは、「ここは私有地なのでできません」「ここはルールがあるのでそれはできません」と禁止主導で導くのではなく、「ここはこういうスペースですが、こういう手段をとればできますよ」「こうしたら実現できますよ」と言ったように自由主導で住民を導いていくルール感のことである。




少し話が逸れてしまったかもしれないが、ここは、海士町は、海士町図書館は、マイパブリックがつくりやすい環境下にある。(※マイパブリックとは「自分で作る公共」のこと)住民たちがイキイキしていて自分の得意なことややりたいことを形にしている。一方で、行政側も自由主導のルールに則り、綿密に計算された(計算はしていないかもしれないが)補助線付きの白紙を提供している。なんて素敵なまちなんだろう。



小さく柔軟であることを活かしたここにしかない図書館づくり。館長のお話の中で出てきた、それをメンテナンスしていくこと。

やっぱり心地いい空間というのは、動かしている人がきちんと考え実行し、心地いい人でないと創れないものなのだと改めて考えた。



学習者であること。
そして小さな変革者であること。

それは私の大事にしたい信念にある。

昔からそうだ。何か大きなものを成し遂げたいとか世界を変えたいだとか思ったことがない。
いつだってボトムアップで、草の根活動で、泥臭くて、対”人”と向き合うことに惹かれてゆく。
そこに大きな意味なんてなく、周りにいる人がひとり、またひとりと幸せになればいいなと思いながら過ごしている。ここに住みながら、自分と向き合う。自分と向き合っていくことの連続で人生は形作られるのだと思う。


そういえば今日はマイブラザーの誕生日だ。
21さいだって、ピチピチじゃんね。
いっぱい失敗して挫折していい男になれよ、熊本パイロットボーイ。


絵本コーナー
企画展示。コロコロ変わっていて行くたびに立ち止まってしまう。前は性教育に関しての展示だった。


ここでドリンクが飲めちゃう
シードライブラリー。タネの貸し借り。これも住民の方の声で始まった取り組みだそう。
わたしの好きな現代短歌の本がたくさんある。驚くくらいたくさんある。そんじょそこらの図書館ではない。





↓余談

「マイパブリックとグランドレベル」で私がオモシロイ!と思ったところを抜粋する。



①アドラーの「幸福」三原則


①自分を好きである(自己容認)→自分を満たす趣味(音楽きく、映画見る)
②他者が信頼できる(他者信頼)→他者と楽しみ交流できる趣味(誰かと飲み行く)
③社会や世の中に貢献できる(社会貢献)→★第三者と交流できる趣味(マイパブリック)





②都市のヴォイド(空白)

ヴォイドを満たすのは何か?

ズバリ「人の気」である。その「人の気」」っちゅーものは知らない人でいいし、話さなくていいし、こちらを向いてなくてもいいし、極論実際居なくても良い。居ると感じれたら。人は多くのことを無意識に読み取っていきているから、自分もそこに居ていいとおもえたら勝ち、ゆるくてやさしい居心地。どんなまちでも、ひとでも、「ひとがいる場」が好き。ひととの関わり方や距離感に嗜好の違いがあるだけで。「自分の居場所がある」と感じられる、これはマストなことだと思う。




③マイパブリックレベル高い街リサーチ
コペンハーゲン・ポートランド・ニューヨーク・台北など。







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