帆船の外:「海へ出るつもりじゃなかったし」覚書

 見えている世界、というのは、一見すると非常に強固なものに思えます。家族との世界や友人たちだけとの世界など、その中にいるときは、この世界の外などどこにもないように思える。ましてや、学校から出たことのない子どもであれば、学校から家までが世界であり、そうした境界を少しずつ踏み出してゆくことで世界を更新してゆくのです。

 こう言って良ければ、学校という世界、友人たちの輪という世界に生きている彼ら彼女らにとって、外の世界というのは独我論者の見る幻想に等しいものです。シャニマスに登場するアイドル達は、それぞれの世界を持っていながら、ユニットや事務所という場に集まる他者と触れることで、外の世界に目を慣らしてゆきます。ただ四人をのぞいて。


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 高山Pが言うように、ノクチルの四人は、すでに関係性が出来上がった状態からアイドルの世界に身を投じることになります。それゆえに、アイドル活動も「仕事」というよりも四人で一緒にいるいつも通りの延長にあるととらえている向きがあります。オープニング「ノロマたちの午後」での、年末に神社を取材していたテレビクルーたちへの距離感からも、そうしたことが読み取れます。

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 彼女たちにとってテレビは、自分たちが映るものというよりも、まだ家で家族とみているものという印象が強いのです。
 また、事務所の冷蔵庫にあったココアをめぐる雛菜と小糸とのやり取りの中でも、ほかのアイドルに対して自分たちが並ぶ位置まで届いていないという自覚が描かれています。

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 どうもこのやり取りからは、いつもの四人の延長としてある「ノクチル」というアイドルに対して、引け目、とまではいきませんが遠慮のようなものを感じているというのが垣間見えます。じっさい、アイドルという偶像に付随する「イメージ」と、本物の自分との間で懊悩するストレイライトの二人とは、きわめて対照的な姿と言えるのではないか。

こうしたノクチルの四人の充足したあり方は、アイドルの文脈でこの言葉を使うとややこしいのだが、原義的な「ユニット」と言えます。彼女ら四人には、「幼馴染」という血縁に並びうる何物にも先行する「ユニット」が存在する。初めに述べたような学校や事務所というような共同体=見えている世界の最もプリミティヴな様態です。

 そして、このような「ユニット」に顕著にみられるのが、外部の欠如です。むろんこれは、日常生活に必要なコミュニケーション能力が欠けていたりだとか、自己中心的ということを指すのではありません。ノクチルの四人にとって、個人差はありますが、何物にも先行する「ノクチル」が強力な世界を形成しています。しかし、このようなあり方へのシャニPの姿勢というのは、そうした世界を崩してやるのではなく、「ノクチル」の世界を肯定する姿勢と言えます。

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みんなでどうなりたいか、ってことも
すこし考えながら、選んでみてくれると嬉しい

 この点は、作中に何度も登場する「湖」と「海」という対比へも接合されるでしょう。「湖」と「海」の大きな違いは、閉じられているか、開かれているか、という点にあるでしょう。樋口の言を借りるのであれば、「アイドルごっこ」が前者、芸能界が後者にあたります。そして、寄る辺なき海のなかでの最小の「ユニット」=単位である「船」というモティーフへとつながります。

 『天塵』での「車」、そして今回の「船」あるいは「騎馬」、そして両者に共通する「浅倉の部屋」というのは、道や海、卑俗な言い方をすれば「世間」から隔離された、自分たちの空間を表象するものとして登場します。そこが閉じていたとしても開かれていたとしても、そこで進みゆく単位は「ノクチル」の四人であるのだと。

 このような、自分たちだけの空間としての船や車というモティーフは、どちらかといえば使い古された表現ではないでしょうか。冒険譚に登場する船とか。それこそ「海へ出るつもりじゃなかったし」のタイトルの拝借元であるランサムの小説だってそうです。「車」については、これも枚挙に暇がないのですが、ドイツの作家ヴォルフガング・ヘルンドルフの"Tshick"(2010)(邦訳は『14歳、ぼくらの疾走』という題で小峰書店から上梓されています)などでしょうか。これは少年たちが盗難車で文字通り「疾走」していく内容なのですが、ヘルンドルフはインタヴューの中で、こうした小説を書くにあたって参照したのは、やはり船による冒険譚だったと語っています。

 そうした四人の「船」=騎馬で、成り行きではあれ雛菜が行き先を決めていたのは印象深い箇所です。

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「雛菜は好きなとこ
 行っていいの~?」
「うん」
「行く方向と、
 走るか歩くかくらいは言って」

「天塵」では四人の中心というか、意思決定にかかわることについて浅倉が負うところが多かったように思えます。それは、例えば「車」についてもそうです。しかし、「海へ出るつもりじゃなかったし」において、内と外を分かつ「車」=「船」というメタファーは僅かではあれ変化しているのは確かです。

濡れてるみたいな/光ってるみたいな道
どれだけ先の音も伝えられる/透明な空気
〔…〕
何かが終わるときと/始まる時がまざる
いつでもない時間
〔…〕
0時0分00000秒きっかりに/飛んだら、どうなるか
きっと/すべては消えて
ほんとの世界になる

 内と外を、彼方まで続く広い海のなかにもたらす船の船員たちがその手に落とした「海」は、騎馬戦でのジャンプを媒介として「ほんとの世界」に結びつけることができます。海賊ごっこや、「アイドルごっこ」だとしても、四人の「船」における経験が「ほんとの世界」を見せるのでしょう。それは、強固に結びついたほかならぬ四人の「世界」として獲得されるのです。


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 ここからは余談です。ノクチルの四人の先行する「ユニット」、そしてそれが彼女たちの魅力なのだと信じるシャニPという点でお話しさせてもらったのですが、書いているうちに少し気になる点が見えてきました。それは「〈他者〉としての浅倉」というものです。

 山かっこで〈他者〉としたのには、辞書的な意味の他者とは区別するためです。ここでいう〈他者〉とは、フランスの精神分析家であるジャック・ラカンの理論における、主体の欲望を動機づける存在としての〈他者〉です。ラカンの理論を現すテーゼとして引き合いに出されるのが「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」という文句なのですが、これは人間の多くが産まれてから初めに接する〈他者〉である「母親」の欲望が、個人の欲望を動機づけるという意味です。

 具体的には、母親の持つ欲望としてファルス(※)があり、子どもの欲望は母の欲望であるファルスを満たすために自身がファルスであろうとするという、母親=〈他者〉に直面した子どもの側の想像力による仮説ということができます。

※ファルス[phallus]:原義的には男性器の象徴とされるこの語ですが、フロイトやラカンなどの精神分析の文脈で用いられる場合、〈他者〉の欲望を動機づけるものという説明が一般的だと思われます。しばしば「ペニス」と混同されるのですが、ペニスはファルスの価値を根拠づけるものとして区別されなければなりません。

 今回の「海へ出るつもりじゃなかったし」では、主に樋口が浅倉へ意思決定を促す場面がありましたね。

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 自分が聞かれると思っていなかったのか、浅倉は「え?」と聞き返しますが、ここだけでは取り立てて不自然なやり取りとは思えません。ぼくが気になったのは、もう一つあります。

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樋口は独白のときは「浅倉」ではなく「透」と呼ぶので、これは呼びかけとみていいでしょう。有耶無耶のままに断った正月のテレビ出演を各々思いだす場面に際したこの呼びかけは、上述のように浅倉の判断を仰ぐように見えるのは穿った見方でしょうか。

 ノクチルの幼馴染という関係性に言及した際、「血縁にも並ぶ」と書いたのは、まさにこの点においてです。ラカンは〈他者〉を母親について言っていますが、自分が産まれるまえからあった浅倉と樋口の関係において、浅倉は樋口の〈他者〉ではないのか?という仮説が浮かび上がります。

 むろん、樋口が人間的にそつなく生活できていたり、ラカンの言うような母親の欲望と自身の欲望が未分化な年齢でもないのは確かですが、そうではなく。
 そうではなく、「船」の内のユニットにおいて、樋口から見た浅倉が構造上の〈他者〉の位置にいるのではないか、ということです。

しかしいずれにせよ、この点については詰めが甘かろうと思うので気が向いたら子細に検討してみようと思います。

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