経済の上に成り立つ悲しい恋と打開の一歩

自分自身に集中する、そこにしか打開策はない。

そういうふうに、あらゆる故人は、その著作で強調している。結論を出さない、問いかけまくる。自分と対話しまくる。
私には一体今なにが起こっているのか。どういう心の状態で、人にどういう態度を実際取っているのか。私の思考も嗜好も、結局は消費された社会のあらかじめ予測された枠組みの中にしか存在しないパッケージなのか。。
では、なぜ特定の1人に人は惹かれるのか。その人は比類ないと言えるのか。私がそう考える根拠はどこにあるのか。
その答えが見つからぬ限り、勇気ある行動、すなわち対話を試みること、はできない。まず、勇気がない。どうすれば勇敢になれるのかが、わからない。

あなたに読んでてほしいと思う。沢山の人を見て、沢山の人と沢山話してきたけど、時間を忘れるほど楽しかったのはあなたといた時間だけだった。
噛み合わない会話ばかりが常であるのに、無駄な言葉を付け足すことなく、共有された認識を持つことができた。

説明する必要のない前提の上に2人が立っていると、少し話せば気づいた。
そもそも仕事が類似している。英語を使うのが当たり前で。営業で。世界を毎日目の当たりにして。

ヨーロッパに対する認識も、だ。これは本当に毎度苦労するんだけど、居住経験のない人には一から説明しないといけないだけでなく、えもいわれぬ哀愁を共有できない。
今どれだけヨーロッパに対して、かつて住んだフランクフルトに対して、心が引き裂かれるか、これは日頃からヨーロッパに接していないと、想像しようがない。あなた以外の多くの同世代がいかに浅いか、毎日痛感する、とても悲しい。世界には分かり合える人が1人もいないのだろうか。

他人に寄り添う姿勢とかいうと、歯に衣着せてる感じがあるけど、ありのままをそのまま受け取り、まず咀嚼して、言葉にするという一連の作業をすることが文化なのだと、私たちは無意識に共有しているのではなかったか、それともそれは私の錯覚なのだろうか。

人を想い続けるという悲痛な試みに対する答えは、私たちを構成する経済と向き合うことにある。経済と恋は不可分にして分かち難い。それを故人たちは、口を酸っぱくして説いている。

どういうわけで私たちは、人さえも競争原理で理解しなければならなくなった?
損得勘定の上にしか成り立たぬ人間関係しかこの世にはもはや存在しないのか?
私たちは孤独に対して徒党を組んで、他人との間に強固なる壁を築くのか?その壁を打ち破る手立てはないのか?
見栄えのいいリカちゃん人形みたいな人間がどうしていっぱいいて、どうして皆と同じだということに気付いていないのか?

これについて独自の見解を、緻密に述べたドイツの偉人Mがいた。彼は貧しく、大親友Eから財政支援を受けながら、資本主義に関する超大作を書き上げた。日本では彼は恐ろしく誤解されていて、ちょっと私も彼の名前を出すことには慎重になってしまうが、彼は誰よりもロマンチストだった。そのことはしかし、日本では読み取られていないように感じる。

つまるところ、牧歌的な人間関係は、大量に消費し消費され莫大な物が目まぐるしいスピードで動く巨大経済のもとに、埋もれてしまい、もう誰もその姿を捉えられることができなくなっているのではなかろうか。

一方で、巨大な国際経済は、私を豊かにし生活を支え、知や経験すら与える。明らかに私は、この経済と協力関係にあり、それを止めようとは思わない。この経済は私に大切な仕事をもたらしている。これからも。

皮肉なことに、この肥大化した国際経済こそが、招かれざる刺客を全世界に拡散させてしまったし、私たちの自分自身に正直になる力すらも奪っている。

では、どのようにして、共に生きるのか。この矛盾に対してどういう見解を与えたら、納得して生きていくことができるか。

まずはこの経済を理解するところから、対話は始まり、経済を知ればあなたのことがより一層わかり、あなたに対してどういう言葉をかければ良いかも見えてくるはずだ。敵だとか味方だとか短絡的に烙印を押すのはやめようと思っている。

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